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Sunday, December 2, 2012

the establishment process of state-regulated prostitution in colonial Korea

http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/seoul/index.html

植民地朝鮮における公娼制度の確立過程

―1910年代のソウルを中心に―

Web版はハングルを日本語に置き換えるなど、完全なものではありません。引用される場合は、公刊された論文をご利用下さい。
註で紹介した文献中斜体で表記したものは、原文タイトルでハングルを使用しています。  


English: Kisaeng School in Heijo(Pyongyang)
日本語: 箕城妓生養成所(妓生学校)
한국어: 기성기생양성소(기생학교)


本文・注(1)
はじめに
I 「併合」までの買売春管理政策1. 朝鮮人接客女性の「出現」
2. 朝鮮人接客業に対する管理のはじまり


本文・注(2)
II 「併合」直後の動向1. 過渡期の管理方針と遊廓の第1次再編
2. 「芸妓」「妓生」の組織化


本文・注(3)
III 植民地公娼制度の確立1. 新規則の制定
2. 遊廓の第2次再編
3. 接客婦の増加と女性売買構造の「日本化」
おわりに


(『二十世紀研究』第5号、2004年12月)


はじめに

日本の近代が幕を開け、海外への渡航者が増加するなか、その先頭を切る形で多数の売春業者がアジア・太平洋地域に渡ったことは広く知られた事実である。貧困に押し出されるように海外へ渡っていった「からゆきさん」たちは、急速に資本主義化する近代日本社会の矛盾を体現する存在であった。しかし一方でこうした女性たちが、日本国家のアジア侵略・植民地化政策を底辺で支える存在として利用されたことも、残念ながら否定することはできない。女性たちは、男性が圧倒的多数を占める初期の海外日本人社会に「娯楽」を提供するとともに、彼女たちや売春業者への課税は居留民社会の重要な財政基盤となった。またとくに日露戦争は、戦場での軍人に対する「慰安」という役割を売春業に担わせる決定的な契機となった。

他方、日本の「帝国」支配という観点から見たときいっそう注目しなければならないのは、売春業の取締りを理由として、海外の日本人社会に日本内地の制度をモデルとする性管理システムが導入されたことである。初期居留民社会の形成や戦時の軍事占領というプロセスを経て植民地化された地域では、被支配民族にまで日本の性風俗文化が浸透し、日本の統治機関は被支配民族の性をも管理下におこうとした。公娼制度を中核とする性管理システムは、当初の日本人買売春に対する管理から、植民地社会の性風俗をコントロールするための仕組みへと役割を膨張させることになるのである。

私はこれまで日本帝国の支配地域やその周辺地域で実施された性管理政策の内容を明らかにしたうえで、これら諸地域に拡散していった朝鮮人接客業―本稿では「売春」に関連する料理店業・貸座敷業・飲食店業などの総称として「接客業」という用語を用いる―の実態や、それが朝鮮の外へ押し出されていく事情について考察してきたが1)、こうした現象の前提として明らかにすべき植民地朝鮮社会での性管理システムや性風俗意識の実態については、断片的にしか言及することができなかった。そこで本稿ではソウルでの事情を中心に、朝鮮における植民地公娼制度の確立とそれにともなう朝鮮人接客業再編の過程を追究することで、朝鮮社会にもちこまれた性管理システムの性格や性風俗に対する意識変化の様相について検討したい。

ところで日本の侵略・植民地化政策の進展にともない、朝鮮に日本の公娼制度が導入される過程については、すでに孫禎睦・山下英愛・宋連玉・姜貞淑らの実証的な研究があり2)、また植民地下の接客業全般の動向を見据えながら15年戦争期の「慰安婦」制度の性格を展望しようとする研究も現れている3)。公娼制度導入の事実経過についてはほぼ明らかにされている今日の研究状況において、本稿が焦点に据えたいのは、上述のような公娼制度の「確立」が朝鮮人接客業を再編成することによってはじめて実現したという論点である。

周知のように、もともと朝鮮の伝統社会に公娼制度は存在しなかった。もちろん「売春」を行う女性がいなかったわけではないが、それを専業とする者はごく少数であった。その意味で売春に深く関わる「接客業」の出現は、朝鮮においては「近代」の産物と見ることができる。しかしながら各接客業の営業形態や接客婦の類型は、当然のことながら朝鮮独自の歴史的・社会的条件に規定され、近代日本の料理店・貸座敷・飲食店、あるいは芸妓・娼妓・酌婦といった分類などとは、著しく異なる形態をとっていたのである。

だが日本の統治機関が植民地社会において、人びとの性を一律に管理しようとすれば、朝鮮人接客業・接客婦の諸類型を再編成して日本式の類型に押し込める作業が必要となってくる。言い換えれば、植民地朝鮮において公娼制度を「確立」するためには、まず朝鮮人「娼妓」の範疇を確定し、その他接客婦との差別化をはからなければならなかったのである。

私は別稿において、朝鮮全土における貸座敷・娼妓制度の統一的実施、朝鮮人接客業の量的拡大、女性売買による接客婦供給の増大、朝鮮人業者を対象とする遊廓の形成などを指標として、第一次世界大戦の時期に、朝鮮社会に日本内地と同様の性風俗意識や接客婦供給のメカニズムが定着しはじめたと述べたことがある4)。本稿ではこのような論点とも関連づけながら、改めて植民地朝鮮において公娼制度が「確立」に至る事情をトレースしていきたい。

*本稿において新聞記事にもとづく記述は、本文中に日付を略記することで典拠を示す。
例:『京城日報』1911年1月1日→『京城日報』11/01/01
なお夕刊は検索の便宜を考慮して、紙面最上段の日付をとり「夕」字を付した。実際はその日付の前日夕方に刊行されている。
I 「併合」までの買売春管理政策

1. 朝鮮人接客女性の「出現」

朝鮮開国(1876年)後、ソウルの性風俗状況に大きな変化をもたらす最初の契機となったのは、日清戦争(1894~95年)であった。植民地期の民俗学者・李能和の著書『朝鮮解語花史』(1927年)は、日本語の「遊女」に相当する朝鮮女性の総称として「蝎甫(カルボ)」という語を用い、ソウルに蝎甫が増えたのは「高宗甲午」年、すなわち日清戦争のはじまった1894年以降のことであると述べている。その背景には、ソウルの日本人花柳界が「日清戦争後、居留民の激増により、一躍進を為し」 )た事情があると見られる。1885年2月に日本の民間人のソウル居住が正式に認められて以来、日本領事館では売春業を禁じていたが(1885年4月、京城領事館達「売淫取締規則」)5)、日清戦争後には料理店が十数軒に増え、芸妓営業も公式に承認されたのであった(1895年5月15日、京城領事館達第11号「芸妓営業取締規則」6)。日本人居住地域における接客業の拡大は、朝鮮人の性風俗意識にも当然、一定の影響を及ぼしたことであろう。

さて『朝鮮解語花史』は蝎甫を、妓生(妓女、一牌)、殷勤者(隠勤子、二牌)、搭仰謀利(三牌)、花娘遊女、女社堂牌、色酒家(酌婦)などに分類している。このうち「花娘遊女」(漁場・収税地・僧坊などを行きかう売春婦)と「女社堂牌」(放浪芸能集団の構成員)はソウルへの立ち入りを禁じられていたので、さしあたり検討対象から除外して差し支えない。また各種接客婦の呼称・表記とその定義は論者によって違いがあり、本稿では「殷勤者」についてはより一般的な表記である「隠君子」を、「搭仰謀利」についてもより常用的な呼称である「三牌」を採用することにしたい。さらに「蝎甫」を「遊女」になぞらえる李能和の解釈にもいささかの問題が含まれている。朝鮮側文献では「蝎甫」を「色酒家」と同じ意味で使用するケースが多く、また日本人の論者は「蝎甫」を「妓生」と対照させて「売春婦」一般の意味で使用する例が多いからである。たとえば1916年に西脇賢太郎という日本人警察官僚(警視)が「朝鮮人芸妓は之を妓生と称し、一牌二牌三牌の区別あり。所謂上中下の意なり。何れも歌舞音曲の素養を有す。娼妓は蝎?と称し、売淫を専業とする者なり」7)と述べているのは後者の一例である。

以上より、ここでは便宜上、ソウルの「接客婦」を妓生・隠君子・三牌・色酒家の四者に区分し、それぞれの性格を検討するところから議論をはじめることにしよう。

ところで上記の西脇の説明で興味深いのは、一牌(妓生)・二牌(隠君子)・三牌をすべて広い意味での「妓生」の範疇に含めていることである。そこでしばしば日本の「芸妓」になぞらえて理解される傾向のある「妓生」についてまず検討しておきたい8)。

朝鮮王朝時代の妓生は、基本的に中央や地方の官庁に所属する「官妓」であり、いわゆる「八賤」のひとつ―賤民の身分に置かれていた。その主な役割は、宮中・官庁で行事や宴会があるときに歌舞を演じ、出席者の接待にあたることである。ソウルで宮中行事などに参席する官妓は、中央官庁に所属する「京妓」と、地方官庁から送られてきた「郷妓」(または「選上妓」)―とくに平壌は名妓の産地として有名である―から構成されていた。また官妓は官吏の求めに応じて自宅で宴を催し、酒食を提供したり歌舞を披露することもあった。しかし妓生に対する国家の給与は充分ではなかったため、朝鮮王朝時代の後期になって、下級官吏が「妓夫」(または「妓生書房」「仮夫」)と呼ばれる後援者となり、この妓夫の仲介によって、特定の男性と性的関係を結んで金銭を受け取り、場合によっては妾として扱われるようになった。妓夫をもたない妓生は、彼女を養育し技芸を教えた収養父・収養母が同様の役割を果たしたという。一般に京妓は妓夫をもつケースが多く、郷妓はもたない者が多かったので、前者を「有夫妓」、後者を「無夫妓」と呼ぶ場合もあった。

李能和の言う「妓生(一牌)」とは、以上のような官妓を指すものであった。ところが日清戦争期に朝鮮政府が実施した甲午改革(1894~96年)により身分制が廃止されたことで、妓生は賤民の身分から解放され、一方で「官紀の粛清」を理由に官妓制度も廃止されたのであった9)。官庁の所属から解かれ、給与がなくなった妓生は、新たな収入の途を探さなければならない状況に追いやられたのである。

隠君子や三牌も、一牌と同様、自宅に客を招いて酒食を提供し、歌舞を演じる接客女性であったので、これらを「妓生」の範疇に含める先の西脇の理解もあながち的外れとは言えない。隠君子は高年齢(25~30歳程度)となり引退した元官妓が中心で、結婚をしなかったり、妓生の収養母などにならなかった場合は、官妓のころと同様に自宅で宴席を設け接客にあたったのである。一牌や三牌は日本の植民地化が進行するにつれ、日本人を客として迎える機会が次第に増えていったが、隠君子は公然たる営業を控えていたため、日本人にとっては最も馴染みの薄い存在であった。また三牌は、雑歌(民間に伝わる歌謡)を歌う程度の技芸しか身に着けておらず、妓生や隠君子のような伝統芸能の素養を備えてはいなかった。したがって一牌・二牌を「妓生」、三牌を「準妓生」と分類する見方もある10)。そして隠君子と三牌も場合によっては売春を行っていた。

最後に色酒家とは、ソウルの場合、零細な飲食店や酒幕(大衆酒場)で接客にあたる女性を指すことが多かった。客に酒を飲ませ、ときには売春を行うこともあるが、芸能の心得などはなく、おもに底辺社会の男性を相手とした。「蝎甫」も色酒家と同様の意味で使用される場合があることは、前述した通りである。

開国後の朝鮮社会における急激な経済システムの変動は、貧富の差を拡大するとともに、朝鮮王朝後期以来の身分制解体の傾向を促進し、甲午改革での身分制廃止は社会諸階層間のいっそうの流動化をもたらした。身分的な拘束は解かれたものの経済的に困窮する女性が、この時期大量に出現したと見られる。また甲午改革では人身売買禁止も掲げられてはいたが、後述するように売春目的の女性の誘拐・売買は、むしろこの時期以降、日本の侵略・植民地政策が進展する中で拡大していく。論者により「妓生」「蝎甫」などの定義が混乱しているのは、こうした朝鮮社会の流動化が各種接客女性の「接客」の内容に急激な変化をもたらしたことの反映にほかならないと言えよう。

2. 朝鮮人接客業に対する管理のはじまり

日露戦争(1904~05年)の勝利により日本が朝鮮を保護国として事実上支配した時期(1905~10年)、日本人売春業は量的にさらに膨張した11)。この時期、日本の官憲当局(領事館業務は統監府のもとに新設された理事庁が継承)による日本人売春業の管理方針は、①「第二種」「乙種」「特別」などの語を「料理店」「芸妓」に冠して事実上の「貸座敷」「娼妓」として管理する、②各地に売春業の営業地域=遊廓を設置し集娼政策を実施する、というものであった12)。①は欧米人に対する「国家の体面」維持のため、売春業を意味する「貸座敷」「娼妓」などの使用を避けるための措置であった。また②の集娼政策は日本国家の性管理システムにとって不可欠な構成要素の一つと言え、1900年10月に釜山で「特別料理店」の営業地域が指定されたのを皮切りとして各地に広まっていった13)。日本内地とコンセプトを同じくする公娼制度が、日本人居住地域で実施されはじめたのである。

1904年6月、ソウルの居留民団はソウル城内南東隅の双林洞に7000坪の地所を買収し、この地を「第二種料理店」(=事実上の貸座敷)の営業地域と定めた。のちの新町遊廓のはじまりである14)。やや遅れて1906年には、日露戦争を契機に日本軍(韓国駐箚軍)が駐屯しはじめた城外の龍山地区に桃山遊廓(のち「弥生遊廓」と改称)が開設された15)。さらに1907年ごろ京城理事庁は吉野町(現・厚岩洞)南廟前に「中の新地」遊廓を新設し、私娼を抱える小料理屋(いわゆる「曖昧屋」)を同遊廓に移転させる措置をとった16)。

一方で保護国期には、大韓帝国政府も朝鮮人接客婦の取締りに着手していた。ただし事実上、日本の支配下におかれていた当時の状況にあっては、朝鮮人接客婦の管理方針も実際には日本側の意向を強く反映するものとなった。

開国後の急激な経済的・社会的変動や、日本の売春業上陸の影響を受けて増加したソウルの朝鮮人接客婦に対し、大韓帝国政府は日露戦争中の1904年にまずその居住地を制限しようとした。同年4月、全国の警察事務を管掌する警務庁では、ソウルにおいて三牌などの居住を一定地域に制限する方針を明らかにし、その後、三牌の居住地域として定められた詩洞(植民地期の笠井町、現・笠井洞)へ40日以内に移転するよう命じたのである。その期限は6月10日ごろであったが、結局8~9割ほどは家屋を購入できず、移転できないままであった。警務庁の調査では、このころソウルにいた三牌は280名であり、詩洞以外では一切売春を禁じる訓令が出された。そして詩洞の三牌が居住する家屋には「賞花堂」の門牌が掲げられた(『皇城新聞』04/04/27、『大韓日報』04/06/12)。警務司(警務庁の長官)申泰休がこうした集娼政策をとったのは、ソウルでも地方でも「游女」が淫らな姿で門前に立っていることを憎み、彼女たちを1カ所に集めて一般住民と交わらないようにするためであったという17)。以後「詩洞(詩谷)」「賞花堂」は三牌の代名詞として用いられるようになっていった。

次に警務庁では1906年、売春に関係すると見られた女性たちに対する検黴(性病検診)実施に乗りだした(この時期の警務庁はソウルのみを管轄)。最初に検黴が実施されたのは同年2月6日で、受検者139名中47名が罹病者と診断された(『帝国新聞』06/02/08)18)。3日後の2月9日には丸山重俊警務顧問が「健康診断施行手続」を制定したところから19)、この検黴実施は明らかに日本側の主導によって実施されたものと見られる。対象になったのは「妓生」と「搭仰謀利」(三牌)と報道されているが、記事内容(註18参照)やその後の経過などから見て、ここで言う「妓生」とは主に「隠君子」(二牌)を指すものと思われる。また「健康」と診断された者には「健康証」が付与された模様だが、これは姜貞淑が指摘するように「公娼制度の初期の姿」20)であり、以後、隠君子と三牌を「娼妓」として取り締まろうとする政策的意図が感じられる。局部に対する検診は非倫理的・非人間的な取扱いとして受診者に屈辱感を与え、反発した詩谷の「賞花堂」(三牌)たちはストライキを行い(『大韓毎日申報』06/02/11)、ある者はアヘンを飲んで自殺をはかるなどの手段で抗議したほか、地方出身の隠君子の中には帰郷する者も現れた21)。しかしこうした検黴強制への反発にも拘わらず、その後も毎月1回のペースで検黴は続けられていった。

ところで興味深いのは、このとき検黴の対象となった女性たちが次のように述べている点である。

……売淫婦トシテ検梅ヲ要スルハ妓生モ亦売淫婦ナリ然ルニ妓生ハ検梅セス今後尚ホ妓生ノ検梅ヲ実行セサルニ於テハ寧ロ妓生ニ転籍セバ検梅ヲ免ルヽヲ得ント22)。
検黴を強制された隠君子・三牌が、これを免れるための手段として「妓生」への「転籍」の可能性を口にするということは、この時点では「妓生」の範疇がいまだ流動的であったことを示唆していると言えよう。

さて1907年7月、警務庁に代わるソウル管轄の警察機関として警視庁が設置され、翌1908年9月28日には大韓帝国最初の接客業取締法令である警視庁令第5号「妓生団束令」、同第6号「娼妓団束令」が公布されている(「団束」は取締りの意)。両者はともに全5条のごく簡単な内容で、しかも「妓生」「娼妓」以外の条文は全く同一であり、妓生・娼妓を認可営業とすること(第1条)、それぞれに組合設立を認めること(第2条)などが定められた23)。1907年8月の第3次日韓協約以降、日本人官吏が大韓帝国政府に任用されており、こうした接客業取締りの方針も日本人警察官僚の意向に沿って決定されたと見るべきだろう。警視庁が作成したと見られる「妓生及娼妓ニ関スル書類綴」収録の公文書類が、ほとんどすべて日本語で記載されているのも、このことを裏付けていると言えよう。

両「団束令」公布から3日後の10月1日にはソウル在住の妓生・娼妓が召集され、警視庁第二課長・浜島尹松が諭告をおこない、①妓生・娼妓とも夫のある者には認可しないこと、②両者ともに結婚許可年齢の満15歳に満たない者は認可しないこと、③同業組合は妓生・娼妓みずからが組織し同業者以外の者はみだりに干渉しないこと、などを告げたうえで、とくに娼妓に対しては、④検黴は「止ムヲ得サル」として婉曲に強制実施の継続を表明し、⑤自ら健康であることを証明しなければ認可しない方針を伝えた24)。10月6日には警視庁訓令甲第41号「妓生及娼妓団束令施行心得」が制定され、上記①が第3条に、②が第4条に盛り込まれたほか、⑤については「娼妓稼業届ヲ為スモノニハ警察医ノ健康証明書ヲ徴スヘシ」(第5条)と具体的に規定された25)。

ところで10月1日の妓生・娼妓に対する諭告の中で、警察当局は「妓生」「娼妓」の定義を初めて明らかにしている。「妓生」とは「旧来官妓又ハ妓生ト呼ヒタルモノヲ総称スルモノ」、また「娼妓」とは「賞花室、蝎甫、又ハ色酒家ノ酌婦ヲ総称スルモノ」とされたのである。1906年2月の検黴開始の際に検診の対象となった隠君子(二牌)は「娼妓」から除外され、代わって「蝎甫」と「色酒家ノ酌婦」(両者はほぼ重なる)が「娼妓」に追加されたのである。

この定義にしたがって、官憲は「娼妓」の組織化に乗り出した。1909年8月20日、賞花堂(三牌)・色酒家・蝎甫が警視庁の指示で集められ、「漢城娼妓組合」の結成総会が開かれたのである26)。酒商(色酒家の抱主)らは負担金の過重さを訴え反対したが、結局、当局に押し切られる形で組合の設立は決まった。漢城娼妓組合はソウルの「娼妓」免許をもつ大部分の女性を網羅し、詩谷(詩洞)近傍の「娼妓」(主に三牌)180余名、市内に散在する「酒商娼妓」(色酒家)140余名から構成されていた。この組合の役員には娼妓だけが就任できたが、妓夫・酒商なども相談役として組合に対する影響力をもっていたと見られる。徴収された組合費のほとんどは「治療費」として支出されているところから、娼妓組合結成の主要目的の一つは検黴費用の捻出にあったと言えよう。なお日本人警察官僚は、組合組織によって妓夫・酒商などの抱主の排除をもくろんでいたようであるが、このねらいは充分には達成できなかった。

さて保護国期には、経済的困窮から「売春」を行う朝鮮人女性が目立って増加した模様である。「併合」翌年の1911年の新聞報道は次のように伝えている。

昨今朝鮮婦人間には社会状態の変遷につれて生活難を唱ふるに至り就中下級婦人等は切実に金銭の生活上必要なるを感じ之が結果如何なる労働にても従業する者あると同時に一方身を醜業界に投じても一家生計の方法を講ぜんとする二傾向を生するに至りし……現下の京城にては未だ十分に之等朝鮮婦人を使用すべき事業なく……(『朝鮮新聞』11/05/05)。
しかし一方で当時、朝鮮に赴任していた日本の警察官僚は、朝鮮での女性売買の状況を次のように観察していた。

悪漢が良家の子女を略奪して売買することあれど、極めて少なき事件に属す。只妓家が妓生・蝎甫等の売春婦と為す目的を以て幼少より他人の女子を買い、之に相当の技芸を教え、自家に於て賤業に従事せしめ、或は他に転売することあり27)。
「妓生」「蝎甫」の理解には混乱が見られるものの、この時期に女性誘拐の風習はほとんど見られなかったこと、売買された女性は単なる売春目的ではなく「相当の技芸」をもつ接客婦として育成されていたことを読み取ることができる。

保護国期には急増する朝鮮人接客婦を管理するために、居住・営業地域の指定、検黴、免許付与、同業組合結成などの措置がとられた。これらの政策によって、大韓帝国末期のソウルでは朝鮮人を対象とする公娼制度が実施されはじめたと言ってよいだろう。しかし当局による「妓生」「娼妓」の定義は示されたものの、その境界はいまだ流動的な側面を残していた。また誘拐などの暴力的手段をも駆使しながら売春を専業とする女性を確保するという、日本で行われていたような女性売買の風習も、さほど多くは見られなかったようである。日本式の性風俗意識は徐々に朝鮮社会を浸食していたものの、性風俗営業をめぐる状況は、日本社会のそれとはいまだ大きな隔たりが存在していたのである。



1) 拙稿「上海の日本軍慰安所と朝鮮人」『国際都市上海』(大阪産業大学産業研究所、1995年)。同「日露戦争と日本による「満州」への公娼制度移植」『快楽と規制―近代における娯楽の行方―』(大阪産業大学産業研究所、1998年)。同「朝鮮植民地支配と「慰安婦」制度の成立過程」VAWW-NET Japan編『「慰安婦」・戦時性暴力の実態I―日本・台湾・朝鮮編―』(緑風出版、2000年)。同「植民地台湾における朝鮮人接客業と「慰安婦」の動員」『近代社会と売春問題』(大阪産業大学産業研究所、2001年)。

2) 孫禎睦「韓国居留日本人の職業と売春業・高利貸金業」『韓国開港期社会経済史研究』(ソウル、一志社、1982年)。同「日帝下の売春業―公娼と私娼―」『都市行政研究』3(1988年3月)。山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉ほか『朝鮮人女性が見た「慰安婦問題」』(三一書房、1992年)。宋連玉「朝鮮植民地支配における公娼制」『日本史研究』371(1993年7月)。同「朝鮮「からゆきさん」―日本人売春業者の朝鮮上陸過程―」『女性史学』4(1994年7月)。同「大韓帝国期の<妓生団束令><娼妓団束令>―日帝植民地化と公娼制導入の準備過程―」ソウル大学校国史学科『韓国史論』40(1998年12月)。姜貞淑「大韓帝国・日帝初期ソウルの売春業と公娼制度の導入」『ソウル学研究』11(1998年12月)。

3) 宋連玉「日本の植民地支配と国家的管理売春―朝鮮の公娼を中心として―」『朝鮮史研究会論文集』32(1994年10月)。同「公娼制度から「慰安婦」制度への歴史的展開」前掲『「慰安婦」・戦時性暴力の実態I』所収。尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)。

4) 拙稿「植民地公娼制度と日本軍「慰安婦」制度」早川紀代編『戦争・暴力と女性3 植民地と戦争責任』(吉川弘文館、2005年1月刊行予定)。

5) 今村鞆『歴史民俗 朝鮮漫談』(南山吟社、1928年)427。

6) 朝鮮開国後、各地の日本領事館の性管理政策は一様ではなかった。釜山・元山などが日本内地と同様に売春業を公認し「貸座敷」「娼妓」という用語を使用しながら取り締まる立場であったのに対し、欧米人が多数居住する首都ソウルとその外港の仁川では「国家の体面」から売春を禁止するたてまえをとっていた。宋連玉、前掲論文(1998)219-232。

7) 西脇賢太郎「風俗警察に就て(第一回)」『軍事警察雑誌』10-12(1916年12月)38。この文章は後述する「貸座敷娼妓取締規則」公布(1916年3月)後に発表されたものだが、料理店を第一種・第二種に分類して解説しているところなどから、1910年代前半の状況を述べたものと思われる。

8) 以下の記述は、李能和、前掲『朝鮮解語花史』のほか、姜貞淑、前掲論文、199-200、川村湊『妓生―「もの言う花」の文化誌―』(作品社、2001年)43-50、などを参考にした。

9) 「京城の花柳界」『開闢』48(1924年6月)97。

10) 同前、96。

11) 1907年ごろから10年までは「京城花柳界の尤も全盛を極めたる年」であったという(『朝鮮新聞』11/09/28)。

12) 詳細は、前掲拙稿(2005刊行予定)参照。

13) 実際に指定地域での営業がはじまったのは、2年後の1902年7月である(『日鮮通交史 附釜山史』釜山甲寅会、1916年、323-324)。嚆矢となった釜山や本文中で紹介するソウル以外にも「併合」までに仁川・元山・平壌・大邱・鎮南浦・羅南・光州などで遊廓がつくられた。

14) 赤萩与三郎「遊廓街二十五年史」『朝鮮公論』18-10(1930年10月)47。

15) 『京城府史』第2巻(京城府、1936年)1032。

16) 今村鞆、前掲書、430。

17) 黄玹『梅泉野録』(ソウル、国史編纂委員会、1971年)310。申泰休が日本の制度を参考にしたかどうかは不明であるが、彼は第1次日韓協約(1904年8月22日)後の、いわゆる顧問警察制度の導入に抵抗し、日本側からはむしろ「排日」的人物と見られていた。宋連玉、前掲論文(1998)255。

18) 地域分布(ソウル五署=東西南北中の各署別)は、南署101名、中署26名、東署2名、西署15名となっているが、以上を合計すると144名となり、記事中の合計値と一致しない。なお南署101名の内訳は「慇懃に(ひそかに)売春する者」56名、賞花室(三牌)45名であるが、朝鮮語で「慇懃」は「殷勤」と同音であるので、前者56名は「隠君子」とも考えられる。

19) 「妓生及娼妓ニ関スル書類綴」(『ソウル学史料叢書』第7巻、ソウル市立大学校ソウル学研究所、1995年、所収)145。この文書綴の表紙には「隆煕二年」「第二課」と記載されており、1908年に大韓帝国政府の警視庁第二課が編纂したものと見られる。

20) 姜貞淑、前掲論文、208。

21) 前掲「妓生及娼妓ニ関スル書類綴」145-146。

22) 同前、146。

23) 同年(1908年)12月には平安北道でも「妓生、妓娼団束令」を制定しているが、詳細な内容は不明である。

24) 前掲「妓生及娼妓ニ関スル書類綴」167-171。

25) 同前、171-172。

26) 漢城娼妓組合については、姜正淑、前掲論文、214-215、に詳しい。

27)『韓国警察一般』(韓国内部警務局、1910年)282。筆者は前出の今村鞆である。


II 「併合」直後の動向

1. 過渡期の管理方針と遊廓の第1次再編

1910年6月、日本は大韓帝国政府に「韓国警察事務委託に関する覚書」を強要し、朝鮮の警察権を完全に掌握して、いわゆる憲兵警察制度(憲兵が警察官を兼任)を成立させた。その直後の韓国「併合」(同年8月29日)で日本が朝鮮を完全に植民地化すると、統治機関として朝鮮総督府が置かれ、すでに大韓帝国政府の警察業務を吸収していた統監府の警察官署は総督府に継承された。ソウルの警察業務(かつては京城理事庁〔日本人側〕・警視庁〔朝鮮人側〕が管轄)は総督府警務総監部に、地方の警察業務(同じく各理事庁〔日本人側〕・各道〔朝鮮人側〕が管轄)は各道警務部に引き継がれたのである。そして「併合」翌年の1911年から13年にかけて、全国13道のうち8道が料理店・飲食店、芸妓・酌婦などに対する管理法令を新たに制定し、集娼政策の徹底、年齢下限の調整、検黴規定の整備などが行われた28)。

これら諸法令の効力は「併合」前の日本人だけを対象とした領事館令・理事庁令や、朝鮮人だけを対象とした大韓帝国政府の「妓生団束令」「娼妓団束令」とは異なり、法制上は日本人・朝鮮人の両者に等しく及ぶはずであった。しかし咸鏡北道や江原道では当該法令を朝鮮人営業者に「準用」するという条項があり29)、また慶尚南道の「料理店及飲食店営業取締規則」(1912年9月、道警務部令第1号)では朝鮮人に一部規定を適用しない措置をとるなど、日本人営業者に対する取締りが法令制定の主な目的であったと見られる。

1910年代前半の朝鮮人接客業に対する管理政策について、ある警察官僚は「妓生・蝎甫の娼業に対する警察上の取締規則は、之れを設定したる地方と全く缺如せる地方あり。従て健康診断の如きも大体病毒伝播の防止を目的とする限度に於て、之れを施行すべきものと信ず」30)と述べており、それがいまだ不徹底な段階にあることを認めている。また後述するように、この時期にも朝鮮人「売春婦」を遊廓に囲い込もうという動きはあったが、「鮮人(ママ)芸娼妓中自ら進んで遊廓に入り、営業に従事する者は之を別とし、朝鮮古来の慣習上彼等に対する営業居住の制限は、内地人芸娼妓の如く重く之を制限することを得ず」31)という状況であった。同じころ慶尚南道警務部が「従来鮮人(ママ)ノ慣習上貸座敷ニ準スヘキ営業ヲ存セス」32)と見ていたように、少なくとも1910年代前半ころまでは、抱主が数名から十数名程度の女性を抱えて売春をさせる日本の貸座敷のようなシステムは朝鮮人社会にはほとんど見られず、したがって総督府警察機構による性管理政策も、日本内地と同様の方式では徹底できなかったのである。

日本は朝鮮の植民地統治に着手した当初から、「民風改善」政策の一環として隠君子や色酒家を取り締まり、また妻への売春強要や妓生の「密売淫」なども警察当局により摘発されていた。ただし1910年代前半に目立つ女性売買の形態は、新聞報道などを見る限り、騙した女性を「妻」として売りとばす事例であった。女性を誘拐して「蝎甫」「娼妓」などに売る事例も存在はするものの、そうした風潮が社会全体に浸透していた段階にはなかったように思われる。

ところで朝鮮の警察権を掌握した日本の警察機構は、「併合」直前に私娼取締強化の方針を打ち出していた。1910年8月19日、明石元二郎警務総長はソウル南・北両警察署管内の主要な小料理店・小飲食店経営者(日本人が中心と見られる)を招集し、自ら8項目の「示達」を伝達した。その要点は、①小料理店・小飲食店でいかがわしい女性を雇い入れた者には警察署からいっそうの注意を与えること(第2項)、②とくに長谷川町・米倉町・旭町・青坡(それぞれ現在の小公洞・北倉洞・会峴 洞・青坡洞に該当)にある小料理店・小飲食店の風儀がよくないので今後しばしば臨検を行うこと(第3項)、③第2・3項の励行で営業が立ちゆかなくなる者は10カ月以内に転業するか、第二種料理店指定地(新町・桃山・中の新地各遊廓)で営業すること(第4・5項)、などであった33)。ソウル城内の日本人小料理店は前述のように、1907年ごろに「中の新地」遊廓へ移転させられたことがあったが、「其後又々市内至る所に増加し、旭町の今の青木堂横町(ママ)、太平町[現・太平路]、長谷川町、黄金町[現・乙支路]青坡辺は軒並みに、怪しげな行燈を掲げ、闇に咲く花の毒臭を放つて居た、朝鮮人支那人相手専門の極下等もあり、又女一人に数千円を出した上等もあつた」 )という状況になっていた。

当時「曖昧屋」と呼ばれた私娼をおく小料理店は、このころソウル市街に130余軒が散在していたと言われ(『朝鮮新聞』11/04/19)、その酌婦は検黴を受け半ば公認された存在であったという(『毎日申報』11/06/18)。三遊廓のうち中の新地は土地狭隘のためもはや新築の余地がなく、新町・桃山両遊廓には「堂々たる貸座敷」が店を構えているため、零細な小料理店では太刀打ちできないと考えられた(『朝鮮新聞』11/04/19)。そのため小料理店はたびたび移転延期を申し出た模様であり、先の示達では「併合」翌年の1911年4月中に移転を終える方針であったにも拘わらず(『朝鮮新聞』11/02/22)、結局6月18日を最終期限として移転が完了した模様である(『毎日申報』11/05/23)。

移転に備えて新町遊廓は西側に隣接する2274坪の地所を加え(『朝鮮新聞』11/04/13)、この拡張地域は「大和新地」と呼ばれた。また龍山の桃山遊廓でも地域を拡張し、家屋新築や大門新設、外郭新築などの工事をすすめていた(『朝鮮新聞』11/02/22)。

移転の結果、桃山遊廓を除くソウルの市街地で営業する「第二種芸妓」(朝鮮人は含まない)の総数は353名となった。その分布は新町の旧遊廓地域に204名(貸座敷12軒)、大和新地に89名(同19軒)、中の新地に57名(同10軒)、外国人3名(同2軒、所在地は不明)で、このほかに第一種芸妓が96名、仲居・酌婦が131名いたという(『朝鮮新聞』11/09/28)。指定地域に移転できない小料理屋は地方に移るか、廃業するしかなかったが、移転に先立って日本人女性が朝鮮人街に移動したり(『朝鮮新聞』11/03/26)、「蝎甫」をおく朝鮮人小料理店の新規開業が続出し、日本人の遊客が増えたとも伝えられている(『朝鮮新聞』11/05/11)。なお平壌や仁川などでも「曖昧屋」を遊廓に移転させる政策がこのころ実施されていた(『毎日申報』11/04/27、『朝鮮新聞』11/04/09、11/09/24)。

しかしソウルでの小料理屋移転政策は、さほど効果を上げなかったようである。移転翌年の1912年3月には、日時が経過するにつれて「外貌で飲食店を装いながら実際は風俗を壊乱する行為がときどきある」と報道されている(『毎日申報』12/03/23、原文朝鮮語)。同じく1912年3月に公布された制令第40号「警察犯処罰規則」が私娼の処罰を規定したことから、警察当局は私娼摘発に本腰を入れはじめたようで、同年3~6月ごろには日本人・朝鮮人のいずれに対しても「密売淫」検挙の行われている模様が集中的に報道されている(『毎日申報』12/03/23、12/05/11、12/05/14、12/05/29、12/06/05、12/06/15、12/06/20)。このころにはソウルだけでなく、開城・仁川・大邱などでも私娼が検挙されており(『毎日申報』12/06/02、13/01/11、13/01/21)、朝鮮全土で取締りが強化された模様である。

その後もソウルの警察当局は、さまざまな形で買売春管理の徹底化をはかろうとした。 1914年から15年にかけての冬より黄金町通一帯では飲食店の新規開店を許可しないことになったが、それでも15年の春ごろには50軒以上が営業しており、どの店も2~3人の「白首」を置き、彼女たちは「公娼の如く心得」客引きまでしていたという(『朝鮮新聞』15/06/03)。しかし始政五年記念朝鮮物産共進会の開催が近づくと、ソウル本町署ではいっそう取締りを厳重にしたため多数の接客業者が廃業した模様である(『朝鮮新聞』15/08/17)。警察当局は、京城府庁や南大門停車場(現ソウル駅)などソウルの主要施設に近い、中の新地遊廓の廃止を決定し、同遊廓の8軒40余名の「娼妓」は、1915年8月中に大和新地または弥生遊廓(旧桃山遊廓)へ移転するよう命じられた(『朝鮮新聞』15/06/06、15/07/01)。

1910年代前半のソウルでは、このように遊廓の整理・再編と、私娼に対する取締り強化という二つの政策が連動して実施され、植民地朝鮮社会における性管理システムの構築が模索された時期と言えるだろう。

2. 「芸妓」「妓生」の組織化

さて前節で述べたような「売春婦」の営業指定地域(遊廓)への隔離と、遊廓以外の地域での私娼取締りは、公娼(日本内地の用語では「娼妓」)とその他の接客婦(同じく「芸妓」「酌婦」など)を差別化しようとする政策的意図にもとづくものであった。日本の公娼制度のたてまえとしては、公娼以外の女性の売春を「公認」するわけにはいかない。前節で紹介した私娼取締り政策は、主として日本人「酌婦」、朝鮮人「色酒家」「蝎甫」を対象とするものであったが、日本人「芸妓」や朝鮮人「妓生」の場合も事情は同じであった。とくに問題になるのは、総督府警察当局が日本の「芸妓」のカテゴリーにあてはめて管理しようとした朝鮮人「妓生」の営業形態が、「芸妓」と著しく異なっていたことである。

妓生管理政策のモデルとなる、日本人芸妓への管理方針からまず見ておこう。日本の官憲は芸妓の密売春を防止する方策として、次の2点を重視していた。

彼等[芸妓]に対する取締方法の一は検番の設置なり。検番は第一種料理店営業者をして之を設置せしめ、芸妓の風紀を矯正し、抱主芸妓間の紛争を防止し、警察取締趣旨を伝達せしむる等の用に供する機関なり。而して取締方法の二は居住の制限なり。即ち従来抱主との契約に依り、現に料理店に同居する者を除くの外、料理店又は其の構内に居住するを許さず。従て芸妓置屋又は自宅に居住せざるべからざることゝなる35)。
この2点のうちとくにポイントとなるのが、前者の検番(朝鮮では一般に「券番」と表記)の設置である。券番の本来の役割は、料理店への芸妓の取次ぎや玉代(料金)の精算などであるが、ここで芸妓の風紀矯正、抱主・芸妓間の紛争防止、官憲からの注意事項伝達などの役割が強調されているのは注目に値する。朝鮮の日本人居住地で芸妓営業が認められて以来、しばらく券番は設置されず、芸妓たちはおおむね料理店に抱えられ、その料理店内に居住していた。そのため芸妓による密売春が容易に行われたと言われている。取締方法の第2が指摘するように、芸妓を料理店内に居住させないようにするためには、芸妓の営業の場(料理店)から、芸妓の生活の場を芸妓置屋として分離しなくてはならないため、芸妓置屋と料理店の仲介役である券番がどうしても必要になってくるのである。こうしてソウルでは1910年に「東券番」と「中券番」という二つの券番がつくられた。その事情は次のように説明されている。

一昨年[1910年]迄芸妓を抱へて居るのは料理屋に極まつて居たもので芸妓とは名のみで其家に居て其家の客に出る丁度遊廓の女郎同然であつた、それが風紀取締と云ふ名義で時の理事官三浦弥五郎君が券番設置を命じた、茲に於いて中券番、東券番の二つが出来た36)。
ただし芸妓置屋と料理店をただちに完全に分離することは難しかったため、当面は両者の兼業も認められており、とくに中券番は「ホンの形式に作られたばかり依然として料理屋と置屋の兼業」という状況であった )。なお一方の東券番は1911年3月に「京城券番」と改称し、さらに1916年5月には京城券番から「新券番」が分離、独立することになった(『朝鮮新聞』11/03/04、16/05/11)。

しかし妓生の場合は、第Ⅰ章第1節で述べたように、もともと自宅に客を招く慣習になっており、1910年代半ばころになっても彼女たちが料理店で営業することは少なく、そもそも朝鮮人経営の料理店自体がほとんど存在しなかった )。すなわち日本人の目から見ると妓生の営業形態は「内地人の夫れのやうに料理屋兼置屋でなく……置屋のみ」(『朝鮮新聞』16/05/14)であったため、券番設置の要求は躊躇されたのである。そこで妓生を管理するため警察当局では、まず前出の「妓生団束令」(1908年)にもとづいて組合を組織させることにした。すでに「併合」前の1908年に京妓が「広橋組合」を設立しており )、1913年には平壌出身の妓生を中心に「茶洞組合」(のちに「大正組合」と改名)がつくられた。前者は「有夫妓組合」、後者は「無夫妓組合」とも呼ばれる。のちに1917年には大正組合から嶺南地方(慶尚道)出身の妓生が分離して、漢南組合がつくられている(『毎日申報』17/02/27)。

以上はすべて、かつて官妓(一牌)であった女性を中心につくられた組合である。しかし前述のように「下級の妓生」とも「準妓生」とも見られていた三牌は「妓生」と「娼妓」の中間に位置する存在であった。三牌は色酒家(蝎甫)とともに1909年に漢城娼妓組合(前出)を組織しており、検黴を強要されるなど、警察当局が彼女たちを管理しはじめたころは「娼妓」として扱われていた。しかし1914年3月には次のような消息も報道されていた。

京城南部詩谷・新彰妓生組合所の芸妓らがみな共同して銅峴警察署に申請したところでは、これまでのような売淫は決して行わず……妓生にふさわしい業務に従事するので、[妓生として]認許して欲しいと切に求めたが……[銅峴署では]正当ではないとして昨12日に申請書を却下した……(『毎日申報』14/03/13、原文朝鮮語)。
ここでは「妓生組合所」「芸妓」と報道されているものの、詩谷(詩洞)を根拠地とし「売淫」を行ってきた女性たちと言えば、三牌にほかならない。漢城娼妓組合との関係は不明だが、このころ三牌たちは「新彰妓生組合所」―通常「新彰組合」と呼ばれる─を設立しており、娼妓から妓生への「昇格」を求めたのであった。この時点では彼女たちの申請は却下されたものの、このような申請の行われたこと自体が「妓生」と「娼妓」の境界がいまだ流動的であったという事実を示しているのである。



28) 紙幅の関係より、これら法令の内容紹介は別の機会に譲りたい。

29) 「警察署長又ハ警察署ノ事務ヲ取扱フ憲兵官署長ハ本則中必要ト認ムル事項ヲ朝鮮人ノ営ム酒幕、酒家ノ営業者ニモ準用スルコトアルヘシ」(1911年5月、咸鏡北道警務部令第6号「料理店飲食店取締規則」第16条)。「本令ハ朝鮮人ノ妓生稼業者ニ準用ス」(1912年8月、江原道警務部令第4号「芸妓及酌婦取締規則」第9条)。

30) 永野清『朝鮮警察行政要義』(巌松堂書店、1916年)266-277。

31) 西脇賢太郎、前掲「風俗警察に就て」38。

32) 1916年6月27日、慶保発第2134号「妓生及鮮人娼妓ノ為其ノ父兄等ニ料理店又ハ貸座敷営業許可ニ関スル件」慶尚南道警察部編『慶尚南道警察例規聚』1935年(加除式、1942年4月現在。青丘文庫所蔵本)270。

33) 1910年8月19日、警発138号「小料理店小飲食店取締方の件」『警務月報』2(1910年8月)28-29、原文朝鮮語。

34) 今村鞆、前掲書、431。

35) 西脇賢太郎、前掲「風俗警察に就て」36-37。

36) 「変手古な芸妓屋(京城芸妓の内幕)」『朝鮮及満洲』53(1912年6月25日)33。

37) 同前。

38) 『朝鮮総督府統計年報』によれば、1915年12月末の朝鮮全体の料理店は642軒あったが、実際のところ「朝鮮人営業ニ係ル料理店ナルモノハ京城ニ於テ二三之アルノ外他ニ於テハ一般酒幕ト称シ飲食店ニ比スヘキ種類ノモノナリ」(永野清、前掲書、281)という状況であった。妓生を料理店に呼んで遊興するという日本の花柳界の風習は、1910年代半ばの時点でも朝鮮には定着していなかったのである。

39) 前掲「京城の花柳界」97。

III 植民地公娼制度の確立

1. 新規則の制定

植民地朝鮮において公娼制度が全土で統一的に実施されたのは、1916年3月31日に公布された警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」(同年5月1日施行)によってである。前述のように、それまで朝鮮での接客業は、開国後の領事館法令を引き継いだ保護国期の理事庁法令、大韓帝国の警察当局が制定した諸法令、そして「併合」後に警務総監部や各道警務部が定めた法令などによって取り締まられていた。しかし日本人と朝鮮人で適用する法令が異なり、また領事館令・理事庁令の施行地域が行政区域と一致しないなど、運用上きわめて煩雑であったこと(『毎日申報』16/04/01)、また「第二種芸妓」などの名称が「出稼者をして往々誤解を招かしむるのみならず、中には故らに芸妓と称して応募者を誘惑する」事態が発生したこと(『朝鮮新聞』16/02/18)などの理由から、全面的な制度改定が実施されたのである。

また「貸座敷娼妓取締規則」と同時に、警務総監部令第1号「宿屋営業取締規則」、同第2号「料理屋飲食店営業取締規則」、同第3号「芸妓酌婦芸妓置屋営業取締規則」も公布された。「三年余の日子を費し各道の風俗、人情、衛生等に就き巨細調査を遂げた」(『京城日報』16/04/01)結果、植民地朝鮮において性風俗政策の根拠となる法体系が一通り整うことになったのである。

「貸座敷娼妓取締規則」はその標題が示す通り、それまで「国家の体面」上、日本が法令用語としての使用を避けてきた「貸座敷」と「娼妓」に対する管理法規であった。すなわち従来の「第二種」料理店、「乙種」芸妓などの不明確な呼称は廃止され、日本内地に合わせてこれらを「貸座敷」「娼妓」として取り扱うことになったのである。この規則の内容についてはすでに先行研究が詳しく分析しているので、ここでの詳述は避けるが、その植民地的な特徴として、①日本人・朝鮮人娼妓ともに、年齢下限が日本内地より1歳低い17歳未満に設定されたこと(第17条)、②自由廃業や文書閲覧・物件所持の自由など、娼妓に対する人権保障規定が内地法令に比べて不徹底であったこと、などには注目しておきたい。ただし一方で、これら一連の接客業取締り法令が制定されたことにより、日本内地と基本内容を同じくする制度が朝鮮へ本格的に導入された点は、やはり重視しなければならないだろう。

一連の法令は、言うまでもなく日本人・朝鮮人に等しく適用することを原則としていた。娼妓の最低年齢設定に見られる折衷的態度は、こうした原則にもとづく妥協的措置と言える。それまで平安北道・黄海道・忠清北道など一部地方では「芸妓」の最低年齢を、日本人は内地と同じ18歳、朝鮮人は16歳と規定していたのだが、「貸座敷娼妓取締規則」では両者の中間をとって娼妓の最低年齢を17歳と定めたのである。

しかし多くの場合は、朝鮮人接客業を日本の接客業の分類に押し込めて管理するため、朝鮮人接客業の枠組み自体を再編成し、その存在形態の変更を要求する方針が追求された。まず妓生のケースについて見ておこう。

「料理屋飲食店営業取締規則」では料理屋営業者の芸妓置屋兼業を禁じていたものの(第5条)、施行日より1カ月以内に届け出れば3年間の兼業が認められることになっており(第29条)、芸妓置屋を兼業する日本人料理店の営業形態がただちに変更を余儀なくされたわけではなかった。しかし一方で芸妓置屋に対しては、料理店兼業を禁止したことはもちろん(「芸妓酌婦芸妓置屋営業取締規則」第10条)、料理店営業者のような猶予期間も設定されなかった。自宅に客を招いて宴席を設ける従来の妓生の営業形態は、芸妓置屋の料理店兼業と見なされ継続できなくなり、朝鮮人側では「大狼狽を極めてゐる」と報道された(『朝鮮新聞』16/05/14)。その結果、妓生の自宅は妓生と妓夫・収養父母の住居としての機能しかもたなくなり、妓生の伝統的な営業形態は消滅していった。妓生の営業の場は料理店に限定されたため、料理店と妓生をつなぐ券番の組織が必要となり、ソウルの妓生組合は券番へと衣替えすることになる。こうして諸規則が施行された翌年の1917年春ごろ、前述のように大正組合から分離、設立された漢南組合は、早くも同年7月に「漢南券番」へと衣替えすることになった(『毎日申報』17/08/02)。続いて翌1918年1月には広橋組合が漢城券番に、大正組合は大正券番へと改編されたのである(『京城日報』18/01/29夕)40)。

ところで一連の規則が公布された直後の1916年5月19日、かねてより「妓生」への「昇格」を希望していた三牌の新彰組合の女性たちに対して、娼妓免許を返還させ、改めて妓生免許を下付する措置がとられた(『毎日申報』16/05/21)。従来「娼妓」に分類されていた三牌が、性風俗政策関連の法体系整備を機に、彼女たちの望み通り「妓生」へと「昇格」したのである。それは彼女たちが技芸
の修練を積み、各種演奏会を活発に開くなどの努力を積み重ねた結果でもあるが41)、一方で妓生の「低俗化」を示唆する現象と見ることもできる。ともかくこの措置によって「妓生」の範囲が確定した。1918年にソウルで色酒家や蝎甫を遊廓に移転させる計画が進められたとき(後述)、移転を嫌った女性たちが「妓生」となることを、警察当局は認めなかった42)。1918年1月には新彰組合も、漢城・大正・漢南の3券番と同格の京和券番へと改編され(『京城日報』18/01/29夕)、三牌の「妓生」としての地位は確固たるものとなった。

2. 遊廓の第2次再編

「貸座敷娼妓取締規則」では、貸座敷営業を指定地域=遊廓内に限定しながらも(第3条)、朝鮮人娼妓を抱える貸座敷営業者に対しては「当分ノ間」この規定を適用しない措置をとっていた(第42条)。一連の規則のなかで、法文上、朝鮮人に対する適用除外規定を設けたのはこの項目だけであり、植民地権力が、日本式の集娼政策はいまだ朝鮮社会の実情にそぐわないケースがあると判断した結果であろう。

しかしソウルでは「朝鮮人にして蝎甫と称せるものは之れを娼妓と称する」と定義したうえで「京城市(ママ)の蝎甫に対しては最も急速にその[営業地域の]制限を為すべき方針」が定まっていた(『京城日報』16/04/01)。朝鮮人「蝎甫」(=色酒家)を「娼妓」として営業指定地域に集中させる方針が、新規則制定の段階で表明されていたのである。ソウルの警察当局は、朝鮮人に対する集娼政策も積極的に進める構えであった。

新規則制定の前から朝鮮人女性を対象として集娼化を求める声は上がっていた。「併合」前に大韓帝国の警察当局が三牌を詩洞に集中させようとしたことは前述の通りであるが、「併合」後の1914年2月には、日本人商業会議所が朝鮮人「娼妓」を一定の場所に集めることを決議している(『毎日申報』14/03/01)。ただし新規則制定後に営業地域指定の対象となったのは、すでに「妓生」に「昇格」した三牌ではなく、「酌婦」との境界が曖昧な「蝎甫」「色酒家」であった。

1917年2月末、ソウルの本町署では所轄管内の色酒家に対し、3月15日までに新町遊廓東隣の並木町(現・双林洞)に移転するよう命じた。当時の状況は次のように報道されている。

いま本町署管内の色酒家は、北米倉町・並木町その他にいる者を合わせて総数が213名であり、その戸数は106戸の多数に達しているが、最も多いのは北米倉町で酒を売る娼妓と、そのほかいわゆるチョットというのが多く、市街の体面と風教上、関係が少なくない……(『毎日申報』17/03/01、原文朝鮮語)。
色酒家は「酒を売る娼妓」とも「チョット」とも言い換えられており、このころの彼女たちの営業形態を垣間見ることができる。「チョット」とは明らかに日本語から来た言葉で、日本人を対象とする酒場の女性が増加していることを窺わせる。以下、史料上では「色酒家」「蝎甫」「娼妓」などの語が入り混じっているが、原資料の使用例にしたがって移転の経緯を紹介したい。

本町署は「色酒家」に並木町への移転命令を出したものの、このころ並木町には家屋が多くなく、ただちに全員が移転することはできないので、さしあたり並木町と、三牌が集められていた笠井町(旧・詩洞)の2カ所に移転することとし、並木町の家屋事情が好転した段階で、全員をこの地域に集めることにした(『毎日申報』17/03/01)。警察当局は1917年8月に貸座敷営業地域を拡張し43)、新町遊廓東側の4893坪を遊廓地に加えた(『朝鮮新聞』17/08/19、『毎日申報』17/08/22)。のちに「東新地」と名づけられたこの地域(並木町)は、日本人貸座敷業者の出資で造成されたと言われる )。本町署では1918年春よりこの地域に家屋を建てはじめ、同年末に工事が完成したので、北米倉町の朝鮮人「娼妓」は12月27、28両日にすべて移転し、残る笠井町の「娼妓」も翌1919年3月までに移転させる予定であった(『毎日申報』18/12/29)。こうして1919年に北米倉町・笠井町の「蝎甫」は並木町「東新地」に移転させられた )。「色酒家」「蝎甫」は「娼妓」となり、ソウルに初めて朝鮮人営業者の遊廓が誕生したのである。

ただしこのとき「東新地」に移転させられたのは、北米倉町・笠井町所在の営業者たちだけであった模様である。1918年7月京畿道警察部では次のような方針を定めていた。

一、新町以外ノ地域ニ於ケル鮮人(ママ)貸座敷営業ハ現在以上可成許可セサルコト但龍山ヲ除ク
[中略]
五、移転実施後[京城]府内ニ散在スル鮮人(ママ)貸座敷営業者カ彼是移転セントスルトキハ可成新町拡張区域ニ入ラシムル方針ヲ執ルコト46)。
北米倉町・笠井町以外の地域に居住していた朝鮮人「貸座敷営業者」に対しては、その数を増やさないことを前提に営業の継続が認められた。本節冒頭で紹介した「貸座敷娼妓取締規則」第42条の例外規定にもとづきとられた措置であろう。ただしこれはあくまでも「貸座敷」「娼妓」の免許を持つ者だけに対する措置であったと思われる。「娼妓」とならなかった「色酒家」「蝎甫」や、「妓生」「娼妓」の枠からはみ出した隠君子(二牌)などは、次節で述べるように、私娼として警察当局による取締り、検挙の対象になっていった。

ところで釜山・仁川・平壌など一部地域では、ソウルに先だってすでに朝鮮人「娼妓」の集娼化を進めていたが、朝鮮全土で本格的に遊廓の再編成が進められたのは、やはり「貸座敷娼妓取締規則」が制定された後のことである。新規則制定後、各道がこれに対応して法制度を整備するなか、遊廓の移転・拡張・新設・廃止が各地で実施されている。1916年から20年にかけて公布された営業地域指定に関する各道の告示を、新聞報道の内容などと総合すると、このときの遊廓再編成は以下のような特徴をもっていた。①それまで地方によっては管轄警察署の裁量で指定していた営業地域を、改めて各道警務部告示の形式で明確に指定した。②日本人の増加などで遊廓所在地が市街地中心部に位置するようになった場合は、市街地のはずれや郊外へ移転する措置がとられた(元山、鎮南浦、大田)。③日本人はもちろん朝鮮人営業者に対しても可能な限り遊廓への集中がはかられた(鎮海、咸興)。④日本人遊廓と朝鮮人遊廓は同一地区内にあるものの基本的に営業地域は分離されていた(明確な例として兼二浦)。

紙幅の関係上、具体例は省略せざるを得ないが、ソウルで見られたような朝鮮人営業者に対する集娼政策は、「貸座敷娼妓取締規則」の制定を契機に朝鮮全土で実施されはじめていたのである。

3. 接客婦の増加と女性売買構造の「日本化」

一連の新規則が制定された第一次世界大戦期の前後で、朝鮮社会の性風俗意識やこれを取りまく状況は大きく変化していた。このころ朝鮮で発行されていた新聞は戦争景気にわく花柳界の模様をしばしば伝えており、のちに「大正四五年[1915、16年]から大正八・九年[1919、20年]頃迄は京城の花柳界に再び春が訪れ、全盛を極めた」47)と回顧される時期となった。

1910年代半ばから20年代初頭にかけて、朝鮮の娼妓数は日本人・朝鮮人ともに急増した。『朝鮮総督府統計年報』に掲載された朝鮮人娼妓数は、第一次大戦前の1913年に585名であったのが、戦争終結後の1919年には1314名と、2.2倍も増えている48)。「元来当局に於いて鮮人(ママ)芸娼妓を減少せしむる方針であるに拘わらず、此反対の現象を見るに至ったのは、一般の需用が増加した結果」ということであった(『大阪朝日新聞鮮満版』19/07/17)。戦争景気により「発展」した朝鮮人接客業は、態勢を整えたばかりの日本の性風俗管理制度のもとで「日本化」を余儀なくされることになる。

一連の規則が施行された直後の時期、ソウルの警察当局では私娼に対する取締りを強化した模様である。記事によっては「一時は八百近くも居た京城の私娼も総監部令発布と同時にドシドシ検挙されて今は早くも二百ばかりに減少した」(『朝鮮新聞』16/07/30)とその成果を強調するものもあった。しかし一方では「私娼中検挙されたるものは……僅々三十人にも満たぬ」(『朝鮮新聞』16/08/05)と、同じ新聞が1週間も経ないうちに全く矛盾する内容の記事を掲載しており、取締り強化の成果が本当に上がったのかは、はなはだ疑問である。

諸規則の施行から2年が経った1918年夏のソウルでは、本町署管内(日本人居住地域にほぼ重なる)に312軒の料理屋があり、その350名の雇女のうち250余名が私娼と目され、これに鍾路署管内の朝鮮人「売春婦」を加えるとおびただしい数となると見られていた(『朝鮮新聞』18/07/07)。本町・鍾路両警察署ではたびたび臨検などを実施しており、たとえば1918年6月10日の臨検において、本町署は抱主21名と女性35名(記事によっては31名)を検挙し、抱主は拘留20日、女性は同3日の即決処分に処し、また鍾路署でも17名を検挙したという。本町署に検挙された女性たちは「規定の年齢に達してゐない甚しいのは十三歳の少女」「民籍の判明してゐないもの」「家人の承諾を得ず身を売られてゐるもの」「鑑札を受けず稼いでゐるもの」「其の他相当取締りの網を潜つてゐる娼婦」などであった(『京城日報』18/06/12夕、『毎日申報』18/06/12)。

朝鮮人接客婦が多数存在するようになった背景として、このころの新聞報道は次のように伝えている。

京城にては昨今地方からポツト出て来た若い女や、或は花の都として京城を憧憬れてゐる朝鮮婦人の虚栄心を挑発して不良の徒が巧に婦女を誘惑して京城に誘ひ出し散々弄んだ揚句には例の曖昧屋に売飛して逃げるといふ謀計の罠に掛つて悲惨な境遇に陥つて居るものが著しく殖えた形跡がある……(『京城日報』18/06/12夕)。

戦争景気に後押しされた娼妓の需要増大は、朝鮮社会に日本と同じような女性売買の構造を移植する結果をもたらした。前述のように、この時期以前の朝鮮人女性の誘拐・売買事件は主として「妻」として売ることを目的に発生したものであった。しかしとくに1910年代の後半になると、甘言に騙され、誘拐された女性が娼妓などに売られるという報道が目立って増加している。植民地朝鮮においても女性売買によって娼妓などの接客婦が供給されるという日本と同様の仕組みが、社会に根を下ろしはじめていたのである。

おわりに

植民地朝鮮における日本の公娼制度は、1916年の「貸座敷娼妓取締規則」をはじめとする一連の接客業取締規則の制定を契機に確立した。それはたんに法制度が整備されたという意味からだけではなく、従来の朝鮮人接客女性(妓生、隠君子、三牌、色酒家・蝎甫)が、日本の警察当局が定めた「芸妓」「娼妓」「酌婦」という分類にあわせて再編成された現象をも含んでいる。遊廓に集中させる基本方針がとられた娼妓と、それ以外の接客婦との間は、空間的にも理念的にも明確な線引きが図られ、娼妓=公娼以外の「売春」する女性は私娼として摘発の対象となった。

日本側の基準で再編成された朝鮮人接客業においては、日本人接客業の営業形態を参酌して存続をはかろうとする傾向が、従来よりもいっそう強まったことであろう。券番制度を導入せざるを得なかった妓生はその典型であるが、その他の接客業も事情は同様であったと思われる。また「チョット」という呼称の出現に象徴されるように、日本人を対象とする朝鮮人接客業もいっそう拡大する傾向にあった。こうした状況は営業者のみならず、朝鮮社会全般にわたって性風俗意識の面での「日本化」を加速化させたものと見られる。

一方、公娼制度の確立と時期を同じくして、朝鮮社会では第一次世界大戦による好景気が接客婦需要の急増をもたらしていた。「日本化」した性風俗意識の持ち主たちは、日本式の女性売買にもとづく接客婦供給の仕組みを導入することによって、接客婦需要の増大に応えようとした。誘拐・詐欺などの手段をも駆使しながら接客婦を供給する女性売買のメカニズムが、この時期に形成されていったのである。

同時期に進行していた現象は、以上にとどまらなかった。旧稿で触れたように、この時期には朝鮮人接客業が朝鮮の外へと移動する現象もはじまっていたのである。第一次大戦期には朝鮮在住の日本人接客業者が多数、占領地の青島に渡っており(『朝鮮新聞』15/01/26、15/01/27、15/01/29、15/02/11ほか)、こうした日本人業者の移動は朝鮮人にも強い印象を与えたことであろう。日本人業者と競合する形で青島に渡航した朝鮮人営業者はごく少数と思われるが、歴史的に関係が深く、すでに鉄道で連絡されていた中国東北地方(満洲)には、日本の支配下にあった関東州・満鉄沿線地域を中心として、この時期に朝鮮人接客業者の移動がはじまっていた。中国東北地方のうち日本の影響下におかれた地域にも、すでに日本の公娼制度が導入されていたのである49)。

こうして植民地朝鮮社会においては、第一次大戦期の公娼制度確立や接客婦需要の急増などを背景として、日本内地と同様の性風俗営業を支える仕組みが定着していった。そして再編成された朝鮮人接客業は、朝鮮内の事情ばかりでなく、他の東アジア諸地域の動向にも規定されながら活動範囲を拡大することになる。朝鮮における植民地公娼制度の確立は、土壌を同じくする性管理システムをもった日本「帝国」内の他地域との間に、性風俗営業のネットワークを形成する契機ともなったのである。



40) ただしソウルで実施されたような強引な措置は、必ずしも朝鮮全土で一律に実施されたわけではなかった模様である。たとえば慶尚南道では私娼の跋扈を恐れる立場から、妓生の自宅を「料理屋」とするよう誘導するなど、ソウルとは正反対の方針がとられていた(前掲「妓生及鮮人娼妓ノ為其ノ父兄等ニ料理店又ハ貸座敷営業許可ニ関スル件」270)。

41) 姜貞淑、前掲論文、232-233。

42) 1918年9月、京保第5703号「鮮人貸座敷移転ニ伴フ取締方ノ件」京畿道警察部編『京畿道警察法令聚』朝鮮警察協会京城支部、1924年(加除式、1927年12月現在。青丘文庫所蔵本)54ノ2-55。

43) 1917年8月27日、京畿道警務部告示第1号。

44) 赤萩与三郎、前掲「遊廓街二十五年史」48。

45) 同前。

46) 前掲「鮮人貸座敷移転ニ伴フ取締方ノ件」54ノ2-55。

47) 市井散人「京城花柳界の今昔」『朝鮮及満洲』293(1932年4月)102。

48) 『朝鮮総督府統計年報』掲載の娼妓実数値は精度に問題があるが、同一基準にもとづく通時的なデータであるので、増減の傾向については参考になると思われる。

49) 前掲拙稿(2000)参照。

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