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Monday, October 1, 2012

清風明月 seifu-meigetsu,the derivation from chinese history

http://www.geocities.jp/enjoy_a_china/soshoku_sekihekinofu_1.htm

蘇軾 「赤壁賦」 (1)

宋の元豊五年(1082)旧暦七月十六日夜、蘇軾が明月の下、客人と舟遊びして、覇を競って赤壁で大激戦をした魏の曹操や呉の周瑜の栄枯盛衰を偲びつつ、自分のはかない身の上を嘆き、無限の大自然の前では限り有る命しか持ち得ない人間は、英雄も流人も何等選ぶところが無い、儚いものであることを悟り、虚心に明月と長江の清風とを楽しみ、憂いを忘れた、という感慨を述べた歴史に残る名文である。



赤壁図  武元直(金) 国立故宮博物院所蔵
船頭と蘇軾とその二人の友人が小舟(上図左下)に乗って長江を下る図。そそり立つ赤壁と長江の流れ、「遊於赤壁之下。清風徐來、水波不興」、「縱一葦之所如、凌万頃之茫然」の場面が描かれている。   

赤壁賦 (1)     蘇東坡

壬戌之秋、七月既望、  壬戌(じんじゅつ)の秋、七月既望(きぼう)、
蘇子與客泛舟、       蘇子 客と舟を泛(うか)べて、
遊於赤壁之下。       赤壁の下に遊ぶ。
清風徐来、水波不興。    清風 徐(おもむろ)に来りて、水波興らず。
挙酒属客、           酒を挙げて客に属(すす)め、
誦明月之詩、歌窈窕之章。 明月の詩を誦し、窈窕の章を歌う。

既望=陰暦の月の15日を望、16日を既望という。属 zhu2= (酒を)注(つ)ぐ 勧める 明月之詩、窈窕之章=中国最古の詩歌集といわれる詩経にある。前者は陳風篇にある「月出」、後者は周南篇冒頭の「関睢*」(かんしょ)をさす。
「月出」は月明かりに照らされた美人の姿とそれを目に留めて悩ましく思
う詩人の心情が詠われている。「関睢*」は、窈窕たる(つつしみ深い美しさを持った)女性を理想の配偶者として追い求めた貴族の男子の心情を詠ったもので、詩経300余首の巻頭を飾る名詩である。
(詩経 「月出」 「関雎」ここをクリック)

壬戌(元豐五年 1082年)の秋旧暦七月十六夜、わたし(蘇子)は客とともに船を浮かべて、赤壁の下に遊んだ。清風がゆるやかに吹き、川面には波も立たない。酒を取って客に勧め、(「詩経」の)明月の詩を誦し、窈窕の章を歌った。

少焉月出於東山之上、 少焉(しばらく)して 月 東山の上に出でて、
徘徊於斗牛之間。    斗牛の間に徘徊す。
白露横江、水光接天。  白露 江に横わり、水光 天に接す。
縦一葦之所如、 一葦(い)の如(ゆ)く所を縦(ほしいまま)にし、
凌萬頃之茫然。 萬頃(ばんけい)の茫然たるを凌ぐ。
浩浩乎如馮虚御風、   浩浩乎として虚に馮(よ)り風を御して、
而不知其所止、      其の止まる所を知らず、
飄飄乎如遺世独立、   飄飄乎として世を遺(わす)れ独り立ちし
羽化而登仙。      羽化して登仙するが如し。

斗 dou3=斗宿。北斗七星と南斗(射手座)六星をいうが、ここでは後者を指す。射手座は晩夏の夕暮れに南中する。 牛 niu2=彦星、牽牛星。夏の夜空によく見える。春は明け方に東の空に上り、秋は宵のうちに西に沈む。冬は見えない。 如 ru2=(書面語)行く、赴く 縦 zong4=思いのままにする 万頃=頃 qing3 は土地面積の単位で、およそ6.7ヘクタール。万頃でひろびろとした(水面、土地)の意。茫然=見当がつかない、とりとめがつかないさまをいう。 遺世独立 yi2 shi4 du2 li4 =世間を離れて独りで生活する。
しばらくして月が東山の上に出、斗牛(南斗星と牽牛星)の間を徘徊した。長江の流れが白露のように光り、その光が天に接している。小舟は葦のように流れに任せ、果てしなく広がる水面をわたっていく。飄飄として世間を離れて独り立ちし、飛翔してそのまま羽化し仙人となって天にも昇った心地である。

於是飲酒楽甚。     是に於て酒を飲みて楽しむこと甚し。
扣舷而歌之。歌曰、  舷を扣いて之を歌う。歌に曰く、
桂櫂兮蘭槳*。      桂の櫂(とお)、蘭の槳*(しょう)。  *[将/木]
撃空明兮泝流光。   空明(くうめい)を撃ちて流光に泝(さかのぼ)る。
渺渺兮予懐、      渺渺として予が懐(おも)い、
望美人兮天一方。   美人を天の一方に望む。

櫂 zhao4=(書面語)かい、オールをいうが、中国における現在の表記は櫂を使用せず棹を用いる。蘭槳*[将/木] jiang3 =木蘭の木で作った(舟の)かい。桂櫂も蘭槳*[将/木]も、広くは舟をいう。いわば小舟の美称である。唐の太宗・李世民の「帝京篇之六」、中唐の詩人・劉禹錫の「竹枝詞」などにも「蘭橈」の用例がある。「橈」(nao2、 rao2)は槳*[将/木]に同じ。 空明 kong1 ming2=月光の下の清波をさす。(広辞苑には、清い水に映った月のかげ、とある。) 流光=水の流れにうつる光 渺渺(びょうびょう)=広くて果てしない

ここに至って酒を飲み楽しむこと甚だしく、船べりを叩いて歌を歌った。歌にいわく、桂の棹と蘭の槳*で(小舟を漕いで)、月に照らされた水面(みなも)をかきわけ、流れに映る月の光を遡る。わが思いは遥か遠く、天の彼方にある美人(明月)を望む。

客有吹洞簫者。     客に洞簫(どうしょう)を吹く者有り。
倚歌而和之。       歌に倚りて之に和す。
其声鳴鳴然、如怨如慕、其の声鳴鳴然として、怨むが如く慕うが如く、
如泣如訴、余音嫋嫋、 泣くが如く訴えるが如く、余音嫋嫋として、
不絶如縷。        絶えざること縷(る)の如し。
舞幽壑之潜蛟、     幽壑(ゆうがく)の潜蛟(せんこう)を舞わしめ、
泣孤舟之寡婦。     孤舟の寡婦を泣かしむ。

洞簫 dong4 xiao1=簫の笛 縷 lv3=糸 嫋嫋(じょうじょう)=音声の長くひびいて絶えないさま 幽壑 you1 he4=深淵 蛟 jiao1= 想像上の動物で、洪水を起こす竜。

その時客に洞簫を吹くものがあり、歌を歌ってこれに合わせた。その音色はむせび泣くようで、恨むようでもあり、慕うようでもあり、泣くようでもあり、訴えるようでもあった、余韻は細く長く続いて、切れ目のないのは細い糸のようである。それを聞いて深淵に潜んでいた蛟(みずち)は水から飛び上がって空に舞い、孤舟の寡婦は泣いたのであった。

蘇子愀然正襟、     蘇子愀然(しょうぜん)として襟を正す、
危坐而問客曰、     危坐(きざ)して客に問いて曰く、
何為其然也。 客曰、 何為れぞ其れ然るやと。客曰く、
月明星稀、烏鵲南飛、 月明らかに星稀に、烏鵲(うじゃく)南に飛ぶ、
此非曹孟徳之詩乎。  此れ曹孟徳の詩に非ずや。
西望夏口、東望武昌、 西にかたに夏口を望み東のかたに武昌を望めば山川相繆、欝乎蒼蒼。 山川相繆(まつわ)り、欝乎(うっこ)として蒼蒼たり
此非孟徳之困於周郎者乎。此れ孟徳の周郎に困められしところに非ずや

愀然 qiao3 ran2=悄然、憂えるさま(学研漢和大辞典=表情ー顔の筋肉ーを引き締める) 危坐=正座 烏鵲=かささぎ 曹孟徳=魏王曹操。孟徳は字。155-220年。 曹操の詩とは、「短歌行」をさす。夏口=湖北省にかつて存在した県。のちに漢口と改称され、さらに武昌、漢陽とあわせて武漢になった。夏口も武昌も魏の曹操軍と都督周瑜率いる呉の孫権の水軍とが戦った赤壁の戦い(劉備、孫権軍が曹操の大軍を破った)の激戦地である。周郎=周瑜を呉人は周郎と呼んだ。いずれも三国志に詳しい。繆 liao2=古くは繚(まとう、まつわる)に通じて用いた。 鬱乎=草木が茂るさま、物ごとの盛んなさま 蒼蒼(そうそう)=青々としたさま 者 zhe3=(形容詞、動詞のあとにつけて)人、事、物、所をあらわす助詞 

わたしは表情を引き締め、襟を正して正坐し、客にこういった、どうしてこんな風なのかと。客答えて曰く、月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶとは曹操の詩ではなかったか、西のかた夏口を望み、東のかた武昌を望めば、山と川が相い迫り、木々が鬱蒼として生い茂っているとは、曹操が周郎に苦しめられた者(ところ)ではなかったか。

方其破荊州、下江陵、    方(まさ)に其の荊州を破りて、江陵より下る、
順流而東也、舳艫千里、  流れに順い東するに、舳艫(じくろ)千里、
旌旗蔽空。           旌旗(せいき)空を蔽う。 
釃*酒臨江、            酒を釃*(つ)いで江に臨み   *[酉麗]
横槊賦詩。           槊(さく)を横たえて詩を賦す。
固一世之雄也。        固(まこと)に一世の雄なり。
而今安在哉。          而して今安(いず)くに在りや。

舳艫 zhu2 lu2=船尾と船首 船が列をなしてつながっているさま 千里=ここでは距離の長さをいうのではなく、どこまでも見渡す限り、ほどの意。旌旗 jing1 qi2=色とりどりの旗 [酉麗] shi1=酒をつぐ 槊 shuo4 =昔の兵器の一種で、柄の長いほこ 横槊賦詩=英雄は軍中においてもなお風流であるのたとえ。

まさにここは曹操が荊州を破り、江陵を下り、そこから長江を東に下って、船を連ねること千里、艦隊の旗が空を覆うほどであった。曹操は酒をついで、長江に乗り出し、戦いを目前にして、槊(ほこ)を橫たえて詩を賦した。まさに一世の雄というべき男であったのに、今はどこにいってしまったのだろうか。



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蘇軾 「赤壁賦」 (2)

 宋の元豊五年(1082)秋七月十六日夜、蘇軾が明月に乗じて客人と舟遊びして、覇を競って赤壁で大激戦をした魏の曹操や呉の周瑜を偲びつつ、自分のはかない身の上を嘆き、大自然の前では英雄も流人も何等選ぶところが無い、儚いものであることを悟り、虚心に明月と長江の清風とを楽しみ、憂いを忘れた、という感慨を述べた歴史に残る名文である。



         赤壁図  武元直(金) 国立故宮博物院所蔵
船頭と蘇軾とその二人の友人が小舟(上図左下)に乗って長江を下る図。そそり立つ赤壁と、「遊於赤壁之下。清風徐來、水波不興」、「縱一葦之所如、凌万頃之茫然」の場面が描かれている。   

    赤壁賦 (2)      蘇東坡

況吾與子、     況や吾と子と、
漁樵於江渚之上  江渚(こうしょ)の上に漁樵(ぎょしょう)して、
侶魚蝦而友麋鹿。 魚蝦(ぎょか)を侶とし麋鹿(びろく)を友とする。
駕一葉之軽舟、   一葉の軽舟に駕し、
挙匏樽以相属、   匏樽(ほうそん)を挙げて以て相い属(つ)ぎて、
寄蜉蝣於天地.、   蜉蝣(ふゆう)を天地に寄せる.、
渺滄海之一粟。   渺(びょう)たる滄海(そうかい)の一粟(いちぞく)なり
哀吾生之須臾、   吾が生の須臾(しゅゆ)なるを哀しみ、 
羨長江之無窮。   長江の無窮なるを羨やむ。
挾飛仙以遨遊、   飛仙を挾んで以て遨遊(ごうゆう)し
抱明月而長終、    明月を抱えて長(とこし)えに終わらんこと
知不可乎驟得、    驟(にわ)かには得べからざることを知り、
托遺響於悲風。    遺響(いきょう)を悲風に托するなりと。

江渚=大きな川のみぎわ 麋鹿=麋(おおしか)と鹿。現代中国語では麋鹿(mi2 lu4)はシフゾウをいう。属 zhu2= (酒を)勧める 匏樽=瓢で作った酒樽。広義にはひさごで作った酒器 蜉蝣=かげろう。人生のはかないことのたとえ。滄海之一粟=大海の中の一粒の粟、広大の中の極めて小さいもの 須臾=しばらくの間 遨遊=盛んに遊ぶこと 遺響=余韻

ましてや私も君も、江渚の上に漁樵し、魚蝦を侶とし糜鹿を友とし、一葉の扁舟に乗って、こうやって酒を飲み交わしながら、かげろうのごとく天地の間をはかなくうろついておる。広漠たる大海原の中の一粒の粟と同じ小さな存在だ。自分の命の短さを悲しみ、長江の尽きないことを恨み、せめて空飛ぶ仙人を挾んで以て遨遊し、明月を抱いてとこしえに生き続けることは、到底できないのであるから、悲しい音でも吹いてその余韻を風に託すほかはない。

蘇子曰、客亦知夫水與月乎。蘇子曰く、客も亦夫の水と月とを知るか。
逝者如斯、        逝く者は斯の如くなるも、
而未嘗往也。      而も未だ嘗て往かざるなり。
盈虚者如彼、      盈虚(えいきょ)する者は彼くの如くなるも、
而卒莫消長也。     而も卒に消長すること莫きなり。
蓋将自其変者而観之、蓋し将た其の変ずる者よりして之を観ずれば、
則天地曾不能以一瞬、則ち天地も曾(かつ)て以て一瞬たる能わず、
自其不変者而観之、 其の変ぜざる者よりして之を観ずれば、
則物與我皆無尽也。 則ち物と我と皆尽くること無きなり。
而又何羨乎。 而るに又何をか羨(うらや)まらんや。

盈虚=月の満ち欠け、栄枯衰盛 卒に=にわかに、突然

  私がいった、「君もあの水と月とを理解しているのか。去り行くものはこの水のようであるが、まだ流れ去ってなくなったことはない。満ち欠けするものはあの月のようだが、にわかに消えたり大きくなったりするのではない。変化するものからこのことを見ると、この天地も一瞬たりとも同じ状態ではありえない。変化しないものからこれを見ると、万物も私もすべて尽きることはないのである。それなのにこのうえ何を羨ましがることがあろうか。

且夫天地之間、物各有主。且つ夫れ天地の間、物には各々主有り。
苟非吾之所有、  苟(いやし)くも吾の所有するに非らずんば、
雖一毫、而莫取。   一毫(いちごう)と雖も、取ること莫し。
惟江上之清風與山間之明月、惟だ江上の清風と山間の明月とのみは、
耳得之而為声、      耳之を得て声を為し、
目遇之而成色。      目之に遇うて色を成す。
取之無禁、         之を取れども禁ずる無く、
用之不竭。         之を用いるも竭(つ)きず
是造物者之無尽蔵也。  是れ造物者の無尽蔵なり。
而吾與子之所共適。   而して吾と子との共に適する所なりと。
客喜而笑、洗盞更酌。  客喜んで笑い、盞を洗いて更に酌む。
肴核既尽、杯盤狼藉。  肴核(こうかく) 既に尽きて、杯盤狼藉たり。
相與枕藉乎舟中、     相いともに舟中に枕藉(ちんしゃ)して、
不知東方之既白。     東方の既に白むを知らず。 

一毫=一本の毛筋の意から、ほんの少し、ごくわずか 肴核 yao2 he2=酒のさかな。肴(肉類)と核(果物類)の食べ物 杯盤(はいばん)=杯(さかずき)と皿 狼藉=散乱したさま。中国語の狼藉(lang2 hu1)には、乱暴するの意味はない。枕藉=互いを枕にしてよりかかり、相重なって臥すこと 

そもそも天地の間にあるものは、それぞれ所有者がある。いやしくも自分が所有するものでないならば、一本の毛(ほんの少し)といえども取ってはならない。ただ長江の上を吹く清々しい風と、山あいの明月だけは、耳に入れば心地よい音となり、目に映れば美しい景色となる。これらを取っても禁じるものはなく、使っても尽きることがない。これは万物の造物主の無尽に蔵するものなのだ。そして私と君とともに心に適うものである」と。客は喜んで笑い、杯を洗って改めて酒を酌んだ。酒の肴はもう無くなって、杯や皿が散乱している。そして私と客人はともに船の中で互いに寄りかかって寝てしまい、東の空がもう白んできているのも分からなかった。
                          (赤壁賦(1)はここをクリック)
                 ************
 蘇軾 (1037-1101) 字は子膽(しせん)、東坡居士と号していたところから、蘇東坡とも呼ばれる。四川省眉山県の人。北宋の政治家、詩人、書家(宋の四大家)。文人としては、唐宋八大家の一人だが、蘇軾の業績が一番大きいとの評価を受けている。

 著名な文章家であると同時に、熱烈な政治家で、1057年に20歳で進士となり、地方官を歴任、地方の官僚や宮廷の大臣として悪政の除去と改革を推し進めた。しかし、宮廷での派閥闘争の犠牲となり、43歳から幾たびも流刑に処され、生涯の半分は度重なる政治的苦難に苦しめられた。

 元豐2年(1079年)詩文で政治を誹謗したとの讒言を受け投獄された後、湖北省の黄州に左遷されたが、上に紹介した「赤壁賦」は、この時代の作である。

 蘇軾の「赤壁賦」は二篇あり、前篇の「赤壁賦」(上掲)は、晴れた月夜や澄んだ秋の川を詠い、後篇の「赤壁賦」は山高く月小さく、水落ちて石表れるという冬の景色を詠う。いずれも宋代の文章の手本とされる作品である。

 しかし、蘇軾が詠んだ赤壁は、三国時代の実際の古戦場ではなく、その下流にある。そのために現在では蘇軾が赤壁賦を詠んだ所は文赤壁、戦場の方を武赤壁と呼んでいる。
                   ( 2012.09.18 )

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