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Wednesday, July 25, 2012

the issues of comfort women and textbooks by hangyoreh


http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/952564.html

2009年12月24日13:22
蹂りんされた人生の補償‘僅か金99円’
カテゴリ政治
原文入力:2009-12-23午後07:12:55

‘勤労挺身隊’厚生年金請求額 支給されたが…
貨幣価値変動考慮せずに算出
"日本政府, 被害おばあさんたちを愚弄"
キム・トヒョン記者

"その金を受け取って何をするというの。私がお金を加えて日本政府に返して上げる。菓子なり米なり買えってさ。" 日帝強制占領期間‘勤労挺身隊’動員被害にあったヤン・クムドク(79・光州居住)おばあさんは23日<ハンギョレ>と行った通話で憤りを隠せなかった。日本,厚生労働省が今月中旬にヤン氏など韓国女子勤労挺身隊おばあさん7人宛てに送った入金通知書には僅か‘99円’(約1300ウォン)と記されていた。1998年にヤン氏たちが提起した厚生年金脱退手当て支給請求に対し11年ぶりに戻ってきた日本政府の‘あきれた補償’だった。
ヤン氏は小学校6学年の時の44年、「お金も稼げて上級学校に進学することができる」という日本人教師の話を信じ日本に渡った。しかし、賃金を受け取った記憶はない。会社側に尋ねるとすぐに「年金や貯金に入れてあげるから心配するな」という言葉だけが帰ってきた。無一文で韓国に帰ってきた後、21才の時に結婚したが夫は数年後に家を出て行った。勤労挺身隊と日本軍従軍慰安婦を‘誤解’したのだ。
日帝強制占領期間に日本,名古屋三菱重工業で勤労挺身隊として働いたヤン氏たちは、98年に日本政府を相手に勤労挺身隊動員被害訴訟を提起した。昨年11月、日本,最高裁判所は原告敗訴判決を下した。10年間の裁判は「1965年韓日協定締結により請求権がない」ということで終わった。ヤン氏たちは訴訟とは別に厚生年金に加入したことに伴う脱退手当支給を要求する行政処分も出していた。
やがて今年9月、日本政府はヤン氏たちが44年10月から45年8月までの11ヶ月間、年金に加入していたことを認めた。だが日本政府は貨幣価値変動を全く考慮せず給与の平均額を基準として単純に脱退手当を算出し今回ヤン氏たちに通知したと<朝日新聞>が23日伝えた。脱退手当は需給期間に達しなかった状態で会社を辞めた人が厚生年金を受けることのできない場合に支給されるお金だ。
勤労挺身隊訴訟の韓国側弁護団のチェ・ポンテ弁護士は「支給額は挺身隊おばあさんたちを愚弄するもの」と話した。

東京/キム・トヒョン特派員aip209@hani.co.kr
原文: http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/395176.html 訳J.S

http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/395176.html


http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/976839.html

2010年01月05日12:39
“朝鮮侵略が進むほどに天皇の人気が沸騰した”
カテゴリ2010特別企画 省察と挑戦

原文入力:2010-01-05午前09:04:10
[2010特別企画 省察と挑戦] 庚戌国辱100年新たな100年

②山田昭次
山田昭次 前立教大学教授は日本の植民地支配だけでなく戦後責任,事後責任を執拗に追及してきた。彼の問題提起は日本政府に止まらず ‘国家犯罪’ に加担し黙認してきた日本民衆にも向けられている。自身が30年余り在職した大学も批判対象の例外ではなかった。立教大学が日帝時に侵略戦争に協力した事例を集め資料集を出し論文を書いた。彼は誤った過去を問い詰める知識人の姿勢に対して「話さずに考えているだけならば逃避することだ。直そうとすればやはり背水の陣を敷かなくてはならない」と話した。
山田は八十の年齢にも関わらず ‘関東大震災時の朝鮮人虐殺真相究明と名誉回復を要求する市民の集い’ で精力的に活動している。日本政府の徹底した無視戦略を打破するために国連に提訴する方案を検討しているという彼を昨年11月3日、埼玉県,所沢の自宅に訪ね意見を聞いた。
関東大地震の時朝鮮人虐殺など
日本政府の無視に国連提訴を検討
山田昭次 前立教大学教授は“朝鮮侵略が進むほどに天皇の株価が上がった」と話した。
-いつから韓国(朝鮮)問題に関心を持つことになったか?
“私は所沢近隣で生まれ育った。日帝末期、商業学校に通っていた時に近くの陸軍航空兵訓練学校で勤労奉仕をした。皇国教育を受けて育ったので実際に本土決戦になれば満州や沖縄のように集団自決に加わったかもしれない。戦争が終わった後、普通の日本人がそうしたように自らを被害者と考えた。自身が戦争の被害者であり、アジアに対しては加害者だということを明確に自覚するようになったのは、1964年の韓日協定反対運動に参加して以来だ。当時、日本で韓日協定に反対する論理は北韓・中国など社会主義圏に対抗する軍事同盟強化の動きを阻止しようということだった。植民地支配に対する贖罪や補償が抜け落ちていることに反対するという考えは進歩陣営にもなかった。私はそれよりは日本が危険な方向へ向かっていると考えた。過去を反省しないまま、再び韓国に行って何かをするかも知れないという疑問が出発点になった。」
-在日同胞留学生スパイ疑惑で71年に拘束されたソ・スン,ソ・ジュンシク兄弟救出委員会活動を永くしたが。
“ソ・スンは東京教育大学(現在はつくば大学に統合)の後輩だ。私が大学院を卒業した時に彼が入学したと思う。1審で死刑,懲役15年の重刑が兄弟に宣告されるや、梶村秀樹が救援活動に乗り出してくれと要請をした。私は68年2月に静岡の寸又峡温泉で起きた金嬉老事件対策のために余力がないと言った。71年11月、ソ氏兄弟を守る集いを結成し、彼らが解放されるまで運動を継続した。72年から嘆願活動をするために何回も韓国を訪問した。通訳なしで尋ね歩かなければならないため韓国語を少しずつ習い始めた。朴正熙大統領の死後、咸錫憲先生を訪ねて行き崔圭夏大統領に嘆願書を出せるよう助けてくれといった。お二人とも東京教育大学の前身である東京高等師範学校出身だ。咸先生は早稲田や慶応大学出身と異なり東京高等師範は同窓会活動が活発でなく、崔大統領と親密な縁がないといった。当時、明洞偽装結婚事件で苦難に陥っていた咸先生はその渦中でも「最近警察で丁重な接待を受けた」と冗談を言われました。結局、駐韓日本大使館の職員と共に大統領府に行き嘆願書を受け付けさせ帰ったこともある。事件を受け持ったイ・ドンミョン弁護士をはじめとする韓国の民主人士をたくさん知ることになったことが私としては大きな喜びだった。」
明治維新後、拝もうとしなかった民
日清戦争以後 ‘天皇’ に歓声
-韓国政府や機関の威嚇を受けはしなかったか?
“露骨な嚇はなかったが、入国ビザを申請しても出してくれなかった。 土井たか子社会党議員の秘書が保証してビザを受けとった。概してソウル,金浦空港を通じて入ったが、一度は釜山に行ったことがある。無政府主義者のパク・ヨルと結婚し獄死した金子文子(1903~1926)の墓が慶北,聞慶にある。墓地を見たくて釜山空港に行ったが、入国審査官が ‘北朝鮮と関連する人物’ と話すのが聞こえた。審査を通過した後、旅券をよく見るとビザ番号の他に鉛筆で書いた番号があった。要注意人物という表示であったようだ。金浦では全く憂いの表情をしなかった。私は運が良かった方だ。嘆願書を持って入り空港で押収されることが結構あった。”
-ソ氏兄弟の母親オ・ギスン氏に関する印象を文として書いたりもしたが。
“民族差別,成績差別に屈せず頑張ったすごい女性だ。幼かった時、学校に行かせてくれないため文を読めなかった。だが、二人の息子が逮捕され面会に通わなければならないので出入国書類を書くために必死に文を習った。監獄で面会する時、息子が○○の本を差し入れてくれと言えば書き取るのに苦労した。すべてを書くことができなくても刑務官は面会時間が過ぎれば冷酷に打ち切ってしまった。ソ氏の兄弟の一番上の兄が獄中の弟たちよりもっと苦労したかもしれない。彼は黙黙と事業をし、弁護士費用などあらゆる面倒を見た。歴史というものは前面にあらわれた人が常に立派なわけではない。ソ・ジュンシクは確定された懲役7年刑を終えても長い間釈放されなかった。国家保安法,社会安全法が日帝の治安維持法,予防拘禁法のコピー版と考えられ、やはり植民地というものは恐ろしいものだと痛感した。”
-金子文子研究がソ氏兄弟救援活動の副産物だったと言うが。
“金子は貧しく育ち戸籍もなく家父長制社会の性的差別も受けた。それで植民地支配下にあった朝鮮人の苦痛と闘争に共感したのだろう。3・1運動の時、普通の日本人は恐ろしいと言ったが彼女は喜んだ。金子の人生は私にとっても激励になった。救援活動に参加しなかったならば金子に会うこともできなかっただろう。”
慰霊碑が立てられたところは結構あるが
虐殺主体が明記されたことは殆どない
-1923年関東大震災時の朝鮮人虐殺問題に飛び込んだ契機は?
“71年12月から73年8月まで長野県,南佐久郡大日向村で満州国農業移民に対する調査を大学生と一緒に行った。満州国を建て開拓移民を送ると村を二分して住民たちを送ったりしたが、その地域が最初の事例であった。調査をする過程で村の人々から衝撃的な話を聞いた。関東大震災の時に逃げてきた朝鮮人たちが周辺の山に潜伏し捜索をしたということだ。こういう辺境の地まで朝鮮人たちが逃げてきたとすれば、虐殺が単に関東地域だけの問題ではないことと思え、当時の地方新聞の報道を調べてみた。各地で朝鮮人が暴動を起こそうと押し寄せてくると大騒ぎであった。それが関東大震災虐殺研究の出発点だった。警察署に収容されていた朝鮮人たちを自警団が襲撃し殺した事例もあった。
80年代には犠牲になった朝鮮人たちの慰霊碑をずっと見て回った。埼玉・群馬・神奈川・千葉県などに慰霊碑が結構ある。在日朝鮮人たちの建設要求に共感する日本人有志たちが地方自治体や住民たちと相談して立てたものだ。碑文を読んでみて感じたことは、虐殺主体が明記されたものがなかったという点だ。概して‘関東大震災に際し朝鮮人が動乱を起こしたという噂により東京方面から送られてきた数十人がこの土地で無残な最後をむかえた’ という形式だった。碑文を書いた人はすべて日本人だ。原・水爆禁止など平和運動の先頭に立った活動家や進歩的学者たちだ。これらの普段の行動や思想からみて自ら望んで碑文をそのように書いたわけではないだろう。恐らくは現地住民たちの反発があり妥協したものとみられる。大震災時の虐殺方式も残酷だった。女性を竹槍で刺すとか、腹を割いて内蔵を抜き取ることさえあった。民族差別だけでなく同時に性的差別も行われたのだ。こういう行為が処罰を受けずに関心を引くこともなかったために軍隊慰安婦問題につながったのだ。”
-日本社会で政府に真相調査を促す動きはなかったか?
“虐殺事件3ヶ月後の1923年12月、永井柳太郎議員が衆議院本会議で山本権兵衛総理に謝罪を要求した。すべての責任を自警団に押し付けているが政府自ら流言飛語を出したことに責任を感じないのかと問い詰めた。山本総理は ‘現在調査中であり、いつか発表する’ と答えたが、今に至るまで日本政府の公式発表はない。 在日朝鮮人たちは日帝支配下でも抗議・追悼集会を各地で開いたが日本官憲が徹底して弾圧した。中日戦争以後には弾圧が激しくなり、朝鮮人たちも集会を開けなかった。クム・ビョンドン前朝鮮大図書館副館長(1927~2008)が、日本人たちが遺骨を発掘し追悼する誠意は認めるが、なぜ国家責任を追及しないのかと批判した経緯がある。日本人の痛い部分を指摘したのだ。2003年8月日本弁護士連合会が小泉純一郎総理に真相調査・責任認定・謝罪を要求する勧告書を出したが何の応答もない。”
“国家犯罪に加担し黙認してきた日本民衆にも責任”
-日本政府が全く動かないが何が可能なのか?
“日本の司法府に提訴することは格別の意味がない。議員を通じ政府に圧力を加えたり、最初から国連へ持っていこうという意見もあり論議中だ。”
-日本では45年8月15日の降伏を敗戦というよりは終戦と言うのが一般的だ。終戦の代わりに8・15という用語を使う理由は?
“従来は天皇制国家が降伏したことをだます言葉であり使ってはいけない。敗戦で日本人が解放されたのだが、国家権力に盲従し戦争をした加害者だったことも明らかで、単純に解放ということもできない。まだ適当な言葉を探せなくて8・15を使っている。朝鮮・朝鮮人問題を本格的に書いた初めての論文が68年1月に発表した‘8・15をめぐる日本人と朝鮮人の断層’ だ。後ほど断層を断絶という言葉に変えた。良い評価もあったが左右両側から反発があった。こういう問題意識を明治時期に持っていったのが征韓論と自由民権論批判だ。それ以前には日本の自由民権運動が朝鮮と連帯していたという意見が多かった。明治時期にそのような発想をしたはずもなく調べてみると、自由民権運動派が不平等条約を問題にしたことはなかった。 朝鮮問題と天皇制とは表裏関係を形成している。明治維新以後、天皇が京都から東京に住みかを移し馬車に乗って通っても一般の人々は頭を下げなかった。頭を下げたのは官僚たちだけだった。しかし日清戦争の時、明治(天皇)が広島に大本営を置き陣頭指揮をしてから東京に戻る時、国民が駆せ参じた。30年にもならずにそのような変化がおきたことで朝鮮侵略が進行されるほどに天皇の株価が上がった。”
敗訴前例なく論理矛盾 憂慮
政府側弁護人 反対尋問せず
-戦争責任を語り‘戦後責任’ ‘事後責任’、ひいては ‘民衆責任’ まで挙論した。民衆責任を語るケースはあまり見られなかった。
“恐らく民衆責任は私が初めて話しただろう。 民衆は日帝時に官憲に加担し虐殺を行い、戦後は自ら罪を告白できないという二重の責任がある。私は後者がさらに重いと見る。大地震の時、日本官憲が朝鮮人暴動などの流言飛語をまき散らした。民衆が殺したということを先に認定して出て、なぜそのようにしたかを問い詰めれば国家の責任を追及することができた。最も大きな責任はもちろん国家が負わなければならない。だが民衆がじっとしていれば国家責任も隠蔽された。私としてはそれがさらに衝撃だ。”
-戦後補償裁判に韓国人原告側証人として立ち、意見書を出す活動を永くしたが。
“遺憾ながら概して敗訴した。日本鋼管の場合は裁判所が和解を勧告し会社が金を出したが謝罪はしなかった。裁判所は強制連行を認めても韓-日条約で補償は終わったとし棄却をする。裁判でおもしろいのは政府側弁護士が反対尋問をしない点だ。下手すると矛盾があらわれる上に、敗訴するわけがないと考えているからただ沈黙を守る。女子勤労挺身隊裁判ではある強制連行研究者が証人に出てきて、当事者を傷つける発言をしたことがあった。日本人ボランティアメンバーが私に、駆け付けて証言してくれと要請をしたが、よく分からない分野なので了解してくれと断った。それでもどうにかしてくれと言われ、しかたなく半年程度猛烈に勉強し証言台に立った。大変だったが良い勉強になりもした。”
-教科書検定に抗議して数十年にわたり法廷闘争をした家永三郎(1913~2002)とはどんな関係か?
“敗戦直前に東京高等師範の教授としてきて、教育大学で30年余り勤めたので私の恩師だ。本来、日本思想史,古代史側が専攻だったその方にとって朝鮮問題は最も弱かった部分だ。大勢について行かず自身の考えを常に再検討し、何か異常だと考えれば修正する態度が良かった。ちょっと保守的な学者だったが検定制度のために教科書が右傾化するやその方は左に旋回した。ソ氏兄弟支援関係で教科書裁判を積極的に助けることができないのが常に気にかかった。手紙を送ったところ ‘今はちょっと違うが最終的に同じ地点に行くことになる’ という返信がきて、とてもうれしかった。”
北朝鮮の日本人拉致は悪いが
日本政府は朝鮮にもっと深刻な振る舞い
-聖公会が建てた立教大学が1930,40年代に日帝の戦争遂行に協力したという点を批判する論文を何回も発表した。1962年から30年余り在職した大学の過去を掘り起こすことは容易ではなかったと思う。学校側の反応はどのようだったか?
“ただ沈黙を守っていた。私に何の圧力もなかった。周辺も同じで、非難はしないが、よくやったとも言わなかった。戦争責任を明確にしなければ論争にならない。”
-拉致問題で北韓に対する日本の世論がとても良くない。北韓たたき現象も続いている。
“拉致はもちろん悪いことだが、関東大震災時に日本人が何をしたかをまともに考えてみなければならない。日本がはるかにひどいことをした。民族主義的感情に走ってはならない。拉致は国家犯罪だが、強制連行も国家犯罪だ。私はこの間、強制連行されて行方不明になった家族を探してくれという手紙を韓国人らからたくさん受け取った。数多くの強制連行行方不明者に対し補償をきちんとしないのに、拉致問題だけ喚いていれば北が何を言っているんだと反発するのも当然だ。”
-朝鮮問題に関わってきた学者として100年をむかえる感想があるならば?
“新しい韓日関係を積み上げるためには日本の国家責任を明確にすることが最も重要だ。私は動きながら考え研究するスタイルだ。自身の人生を考える方式として史学を選んだ。今の若い研究者たちにはそのような態度があまり見られない。遺憾ながら業績競争に没入しているのでちょっと危険だという気がする。”
所沢/キム・ヒョスン論説委員 hyoskim@hani.co.kr
■山田昭次略歴
1930年生まれ. 東京教育大学卒. 立教大学教授. 著書<金子文子>(1996) <関東大震災時の朝鮮人虐殺>(2003) <朝鮮人戦時労働動員>(2005)
原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/397064.html 訳J.S

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/397064.html

등록 : 2010.01.04 22:27수정 : 2010.01.05 09:04
[2010 특별기획 성찰과 도전] 경술국치 100년 새로운 100년
② 야마다 쇼지





야마다 쇼지 전 릿쿄대 교수는 일본의 식민지 지배뿐만 아니라 전후 책임, 사후 책임을 집요하게 추궁해왔다. 그의 문제제기는 일본 정부에 그치지 않고, ‘국가범죄’에 가담하고 묵인해온 일본 민중에도 향해 있다. 자신이 30여년 재직했던 대학도 비판 대상에서 예외가 아니었다. 릿쿄대학이 일제 때 침략전쟁에 협력한 사례를 모아 자료집을 내고 논문을 썼다. 그는 잘못된 과거를 따지는 지식인의 자세에 대해 “말하지 않고 생각만 한다면 도피하는 것이다. 고치려면 역시 배수진을 치지 않으면 안 된다”고 말했다.

야마다는 여든의 나이에도 ‘간토대지진 때 조선인 학살 진상규명과 명예회복을 요구하는 시민의 모임’에서 정력적으로 활동하고 있다. 일본 정부의 철저한 무시 전략을 깨기 위해 유엔에 제소하는 방안을 검토하고 있다는 그를 지난해 11월3일 사이타마현 도코로자와의 자택으로 찾아가 의견을 들었다.

간토대지진 때 조선인 학살 등
일 정부 무시에 유엔제소 검토



야마다 쇼지 전 릿쿄대 교수는 “조선 침략이 진행될수록 천황의 주가가 올랐다”고 말했다.
-언제부터 한국(조선) 문제에 관심을 갖게 됐나?
“나는 도코로자와 인근에서 태어나 쭉 자랐다. 일제 말 상업학교를 다닐 때 근처의 육군항공병 훈련학교에서 근로봉사를 했다. 황국교육을 받고 자랐기 때문에 실제로 본토결전이 됐다면 만주나 오키나와에서처럼 집단자결 무리에 들어갔을지도 모른다. 전쟁이 끝난 후 보통 일본인이 그랬던 것처럼 스스로를 피해자로 생각했다. 자신이 전쟁의 피해자이면서 아시아에 가해자라는 것을 명확히 자각하게 된 것은 1964년 한일협정 반대운동에 참가하면서부터다. 당시 일본에서 한일협정에 반대하는 논리는 북한·중국 등 사회주의권에 대항하는 군사동맹 강화 움직임을 저지하자는 것이었다. 식민지 지배에 대한 속죄나 보상이 빠져서 반대한다는 생각은 진보 진영에도 없었다. 나는 그보다는 일본이 위험한 방향으로 가고 있다고 생각했다. 과거를 반성하지 않은 채 다시 한국에 가서 무엇을 할지 모르겠다는 의구심이 출발점이 됐다.”

-재일동포 유학생 간첩 혐의로 71년 구속된 서승·서준식 형제 구출위원회 활동을 오래 했는데.


“서승은 도쿄교육대학(현재는 쓰쿠바대학으로 통합됨) 후배이다. 내가 대학원을 졸업했을 때 그가 입학했을 것이다. 1심에서 사형, 징역 15년의 중형이 형제에게 선고되자 가지무라 히데키가 구원활동에 나서달라고 부탁을 했다. 자신은 68년 2월 시즈오카의 스마타쿄 온천에서 벌어진 김희로 사건 대책 때문에 여력이 없다고 했다. 71년 11월 서씨 형제를 지키는 모임을 결성해 그들이 풀려날 때까지 운동을 계속했다. 72년부터 탄원 활동을 하기 위해 여러 차례 한국을 방문했다. 통역 없이 찾아다녀야 하니까 한국말을 조금씩 배우기 시작했다. 박정희 대통령 사후, 함석헌 선생을 찾아가 최규하 대통령에게 탄원서를 낼 수 있도록 도와달라고 했다. 두 분 다 도쿄교육대학의 전신인 도쿄고등사범학교 출신이다. 함 선생은 와세다나 게이오대학 출신과 달리 도쿄고등사범은 동창회 활동이 활발하지 않고, 최 대통령과 친분이 없다고 했다. 당시 명동 위장결혼 사건으로 고초를 겪었던 함 선생은 그 와중에도 “최근 경찰에서 정중한 대접을 받았다”고 농담을 하더라. 결국 주한 일본대사관의 직원과 함께 청와대로 가 탄원서를 접수시키고 돌아간 적도 있다. 사건을 맡았던 이돈명 변호사를 비롯한 한국의 민주인사를 많이 알게 된 것이 나로서는 큰 기쁨이었다.”

메이지 유신뒤 절 안하던 백성
청일전쟁 이후 ‘천황’에 환호성

-한국 정부나 기관의 위협을 받지는 않았나?

“노골적 위협은 없었지만 입국비자를 신청해도 나오지 않았다. 도이 다카코 사회당 의원의 비서가 보증을 해줘 비자를 받았다. 대체로 서울 김포공항을 통해 들어갔는데 한번은 부산으로 간 적이 있다. 무정부주의자인 박열과 결혼했다가 옥사한 가네코 후미코(1903∼1926)의 무덤이 경북 문경에 있다. 묘소를 보고 싶어 부산 공항으로 갔는데 입국심사관이 ‘북괴와 관련 있는 사람’이라고 말하는 게 들렸다. 심사를 통과한 뒤 여권을 자세히 보니 비자 번호 외에 연필로 쓴 번호가 있었다. 요주의인물이라는 표시였던 것 같다. 김포에서는 전혀 내색을 하지 않았다. 나는 운이 좋았던 편이다. 탄원서를 갖고 들어가다 공항에서 압수당하는 일이 제법 있었다.”

-서씨 형제의 모친 오기순씨에 대한 인상을 글로 쓰기도 했는데.

“민족차별, 성적 차별에 꿋꿋하게 버틴 대단한 여성이다. 어렸을 때 학교에 보내주지 않으니 글을 깨치지 못했다. 하지만 두 아들이 체포되고 나서 면회를 다녀야 하니 출입국 서류를 쓰기 위해 필사적으로 글을 배웠다. 감옥에서 면회할 때 아들이 무슨무슨 책을 넣어달라고 하면 받아쓰느라 고생을 했다. 다 적지 못해도 교도관은 접견시간이 지나면 냉정하게 끊어버렸다. 서씨 형제의 맏형이 옥중의 동생들보다 더 고생했을지 모른다. 그는 묵묵히 사업을 하면서 변호사 비용 등 온갖 뒷바라지를 했다. 역사란 것은 앞에 드러난 사람이 항상 훌륭한 것이 아니다. 서준식은 획정된 징역 7년형을 살고도 오랜 기간 석방되지 않았다. 국가보안법, 사회안전법이 일제의 치안유지법, 예방구금법의 복사판으로 생각돼 역시 식민지라는 것은 무서운 일이라고 절감했다.”

-가네코 후미코 연구가 서씨 형제 구원활동의 부산물이었다고 하던데.

“가네코는 어렵게 자라 호적도 없었고 가부장제 사회의 성적 차별도 받았다. 그래서 식민지 지배 아래 있던 조선인들의 고통과 투쟁에 공감했을 것이다. 3·1운동 때 보통 일본인은 무섭다고 했지만 그는 기뻐했다. 가네코의 삶은 나에게도 격려가 됐다. 구원활동에 참가하지 않았더라면 가네코를 만나지 못했을 것이다.”

위령비 세워진 곳 제법 있지만
학살 주체 명기된 것 거의 없어

-1923년 간토(관동)대지진 때의 조선인 학살 문제에 뛰어든 계기는?

“71년 12월부터 73년 8월까지 나가노현 미나미사쿠군 오히나타 마을에서 만주국 농업이민에 대한 조사를 대학생들과 함께 했다. 만주국을 세우고 나서 개척이민을 보낸다고 마을을 나눠 주민들을 보내곤 했는데 그 지역이 첫 번째 사례였다. 조사를 하는 과정에서 마을 사람들로부터 충격적인 얘기를 들었다. 간토대지진 때 도망쳐온 조선인들이 주변 산에 은신을 해 수색을 했다는 것이다. 이런 오지까지 조선인들이 도망쳐 왔다면 학살이 단지 간토지역만의 문제가 아닌 것 같아서 당시 지방신문의 보도를 조사해보았다. 곳곳에서 조선인이 폭동을 일으키려 몰려온다고 난리였다. 그것이 간토대지진 학살 연구의 출발점이었다. 경찰서에 수용돼 있던 조선인들을 자경단이 습격해서 죽인 사례들도 있었다.

80년대에는 희생된 조선인들의 위령비를 쭉 둘러보았다. 사이타마·군마·가나가와·지바현 등에 위령비가 제법 있다. 재일 조선인들의 건립 요구에 공감하는 일본인 유지들이 지방자치단체나 주민들과 상의해 세운 것이다. 비문을 읽어보고 느낀 것은 학살 주체가 명기된 것이 없었다는 점이다. 대체로 ‘간토대지진에 즈음해 조선인이 동란을 일으켰다는 뜬소문에 의해 도쿄 방면에서 보내져온 수십명이 이 땅에서 비참한 최후를 맞았다’는 식이었다. 비문을 쓴 사람은 모두 일본인이다. 원·수폭 금지 등 평화운동에 앞장선 활동가나 진보적 학자들이다. 이들의 평소 행동이나 사상으로 보아 스스로 원해서 비문을 그렇게 쓰지는 않았을 것이다. 아마도 현지 주민들의 반발이 있어 타협했던 것으로 보인다. 대지진 때 학살 방식도 잔혹했다. 여성을 죽창으로 찌른다든가 배를 눌러 내장을 뽑아내는 일도 있었다. 민족차별만이 아니라 동시에 성적 차별도 행해진 것이다. 이런 행위가 처벌받지 않고 관심을 끌지도 않았으니 군대위안부 문제로 이어진 것이다.”

-일본 사회에서 정부에 진상 조사를 촉구하는 움직임은 없었나?

“학살 사건 3개월 후인 1923년 12월 나가이 류타로 의원이 중의원 본회의에서 야마모토 곤베에 총리에게 사죄를 요구했다. 모든 책임을 자경단에 돌리고 있는데 정부 스스로 유언비어를 낸 것에 책임을 느끼지 않는가라고 따졌다. 야마모토 총리는 ‘현재 조사중이며 언젠가 발표할 것’이라고 답변했지만, 이제까지 일본 정부의 공식 발표는 없다. 재일 조선인들은 일제하에서도 항의·추도집회를 어디에서건 열었지만 일본 관헌이 철저하게 탄압했다. 중일전쟁 이후에는 탄압이 심해져 조선인들도 집회를 하지 못했다. 금병동 전 조선대 도서관 부관장(1927∼2008)이 일본인들이 유골을 발굴하고 추도하는 성의는 인정하지만 왜 국가 책임을 추궁하지 않는가라고 비판한 적이 있다. 일본인의 아픈 부분을 지적한 것이다. 2003년 8월 일본변호사연합회가 고이즈미 준이치로 총리에게 진상조사·책임인정·사죄를 요구하는 권고서를 냈지만 아무 응답이 없다.”

“국가범죄 가담하고 묵인해온 일본민중도 책임”

-일본 정부가 전혀 움직이지 않는데 무엇이 가능한가?

“일본 사법부에 제소하는 것은 별 의미가 없다. 의원을 통해 정부에 압력을 가하거나 아예 유엔으로 가져가자는 의견도 있어 논의중이다.”

-일본에서는 45년 8월15일의 항복을 패전이라기보다는 종전으로 지칭하는 것이 일반적이다. 종전 대신 8·15라는 용어를 쓰는 이유는?

“종전은 천황제 국가가 항복한 것을 속이는 말이니 쓰면 안 된다. 패전으로 일본인이 해방되기는 했지만 국가권력에 맹종해서 전쟁을 치른 가해자였던 것도 분명해 단순히 해방이라고 할 수도 없다. 아직 적당한 말을 찾지 못해 8·15를 쓰고 있다. 조선·조선인 문제를 본격적으로 쓴 첫 논문이 68년 1월 발표한 ‘8·15를 둘러싼 일본인과 조선인의 단층’이다. 나중에 단층을 단절이란 말로 바꿨다. 좋은 평가도 있었지만 좌우 양쪽에서 반발이 있었다. 이런 문제의식을 메이지 시기로 가져간 것이 정한론과 자유민권론 비판이다. 그전에는 일본의 자유민권운동이 조선과 연대했다는 의견이 많았다. 메이지 시기에 그런 발상을 했을 리가 없어 조사해보니, 자유민권운동파가 불평등 조약을 문제 삼은 적이 없었다. 조선 문제와 천황제는 표리관계를 이루고 있다. 메이지 유신 이후 천황이 교토에서 도쿄로 거처를 옮기고 나서 마차를 타고 다니면 일반 사람들은 머리를 숙이지 않았다. 머리를 숙인 것은 관료들뿐이었다. 그러나 청일전쟁 때 메이지가 히로시마에 대본영을 두고 진두지휘를 한 뒤 도쿄로 돌아올 때 백성들이 몰려들었다. 30년이 되지 않아 그런 변화가 생긴 것이다 조선 침략이 진행될수록 천황의 주가가 올라갔다.”

패소전례 없고 논리 모순 우려
정부쪽 변호인 반대신문 안해

-전쟁 책임을 얘기하면서 ‘전후 책임’ ‘사후 책임’, 나아가 ‘민중 책임’까지 거론했다. 민중 책임을 얘기하는 경우는 별로 보지 못했다.

“아마도 민중 책임은 내가 처음 얘기했을 것이다. 민중은 일제 때 관헌에 가담해 학살을 하고 전후에는 스스로 죄를 고백하지 못한 이중의 책임이 있다. 나는 후자가 더 무겁다고 본다. 대지진 때 일본 관헌이 조선인 폭동 등의 유언비어를 퍼뜨렸다. 민중이 죽였다는 것을 먼저 인정하고 나서 왜 그렇게 했는지를 따지면 국가의 책임을 추궁할 수 있었다. 가장 큰 책임은 물론 국가가 져야 한다. 하지만 민중이 가만히 있으니 국가 책임도 감춰졌다. 나로서는 그게 더 충격이다.”

-전후 보상재판에 한국인 원고 쪽 증인으로 나가 의견서를 내는 활동을 오래 했는데.

“유감스럽지만 대체로 패소했다. 일본강관의 경우는 재판부가 화해를 권고해 회사가 돈을 냈지만 사죄는 하지 않았다. 재판부는 강제연행을 인정하더라도, 한-일조약으로 보상은 끝났다며 기각을 한다. 재판에서 재미있는 것은 정부 쪽 변호사가 반대신문을 하지 않는 점이다. 잘못하면 모순이 드러나는데다 패소할 리 없다고 생각하니까 그냥 침묵을 지킨다. 여자 근로정신대 재판에서는 한 강제연행 연구자가 증인으로 나왔다가 당사자에게 상처를 주는 발언을 한 적이 있었다. 일본인 자원봉사자가 나에게 달려와 증언을 해달라고 부탁을 했으나 잘 모르는 분야이니 양해해달라고 거절했다. 그래도 어떻게든 해달라고 해 할 수 없이 반년 정도 맹렬히 공부해 증언대에 섰다. 힘들었지만 좋은 공부가 되기도 했다.”

-교과서 검정에 항의해 수십년에 걸쳐 법정투쟁을 한 이에나가 사부로(1913~2002) 와는 어떤 관계인가?

“패전 직전 도쿄고등사범 교수로 와 교육대학에서 30여년 근무했으니 나의 은사다. 원래 일본사상사 고대사 쪽이 전공이었던 그분에게 조선 문제는 가장 약했던 부분이다. 대세를 따라가지 않고 자신의 생각을 항상 재검토하면서 뭔가 이상하다고 생각하면 수정하는 태도가 좋았다. 좀 보수적인 학자였으나 검정제도 때문에 교과서가 우경화하자 그분은 좌로 선회했다. 서씨 형제 지원 관계로 교과서 재판을 적극적으로 돕지 못한 것이 항상 마음에 걸렸다. 편지를 보냈더니 ‘지금은 좀 다르지만 최종적으로 같은 지점으로 가게 될 것’이라는 답신이 와 아주 기뻤다.”

북한의 일본인 납치 나쁘지만
일본정부는 조선에 더 심한 짓

-성공회가 세운 릿쿄대학이 1930, 40년대에 일제의 전쟁수행에 협력했다는 점을 비판하는 논문을 몇 차례 발표했다. 1962년부터 30여년 재직했던 대학의 과거를 들춰내기는 쉽지 않았을 것 같다. 학교 쪽의 반응은 어떠했나?

“그냥 침묵을 지켰다. 나에게 아무런 압력도 없었다. 주변도 마찬가지여서 비난하지 않고, 그렇다고 잘했다고도 하지 않았다. 전쟁 책임을 명백히 하지 않으면 논쟁이 되지 않는다.”

-납치 문제로 북한에 대한 일본의 여론이 아주 좋지 않다. 북한 때리기 현상도 계속되고 있다.

“납치야 물론 나쁜 일이지만, 간토대지진 때 일본인이 무슨 일을 했는지 제대로 생각해봐야 한다. 일본이 훨씬 심한 짓을 했다. 민족주의적 감정으로 가서는 안 된다. 납치는 국가범죄이지만 강제연행도 국가범죄다. 나는 그동안 강제연행으로 끌려가 행방불명된 가족을 찾아달라는 편지를 한국인들로부터 많이 받았다. 수많은 강제연행 행방불명자에 대해 보상을 제대로 하지 않으면서 납치문제만 떠들어대면, 북이 무슨 말을 하느냐며 반발하는 것도 당연하다.”

-조선 문제에 매달려온 학자로서 100년을 맞는 감상이 있다면?

“새로운 한일관계를 쌓아가기 위해서는 일본의 국가책임을 분명히 하는 것이 가장 중요하다. 나는 움직이면서 생각하고 연구하는 스타일이다. 자신의 삶을 생각하는 방식으로 사학을 택했다. 지금의 젊은 연구자들에게는 그런 태도가 잘 보이지 않는다. 유감스럽지만 업적 경쟁에 몰입돼 있는데 좀 위험하다는 생각이 든다.”

도코로자와/김효순 대기자 hyoskim@hani.co.kr


http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/983978.html


2010年01月08日18:18
東京戦犯裁判の時‘植民支配’は議論もされなかった
カテゴリ2010特別企画 省察と挑戦
2拍手

原文入力:2010-01-07午後08:52:09
日本に‘朝鮮問題清算’わい曲された見解 植え付け
[2010特別企画 省察と挑戦] 庚戌国恥100年新たな100年
⑤内海愛子
内海愛子早稲田大学大学院客員教授は強制連行や朝鮮人虐殺問題を最初に暴いたのは在日学者たちだと話した。 パク・ジョンシク記者anaki@hani.co.kr
内海愛子教授は自他共に認める朝鮮人BC級戦犯問題の専門家だ。1970年代、20代後半の年齢で夫についてインドネシアに行き、日帝時に徴集されたある朝鮮青年の呆然とさせられる人生を偶然知ることになったことが転機となった。インドネシアに配置された朝鮮人兵士たちの内、一部は日本の降伏後に現地人独立運動勢力に加担しオランダ軍と戦い処刑された。その中には独立運動の功績が認められ一歩遅れてインドネシア英雄墓地に葬られることになった朝鮮人がいた。駐ジャカルタ駐在日本大使館がこの朝鮮人の後処理に何の関心も示さなかった。憤慨した内海は彼の本名がヤン・チルソンであることを明らかにし、78年に家族が暮らしている全北完州参禮を訪ね、死に追いやられた過程を知らせた。(<ハンギョレ> 2008年12月19日付参照)彼女は長年この問題に食い込み少なくない著書と資料集を出した。
残念ながら韓国にはまだこの分野の専門家が現れていない。現実的に30年余りの格差があるわけだ。昨年11月2日、東京で会った彼女にその理由を尋ねたところ「韓国は民主化闘争をしており別のことに気を遣う余裕がなかったので時間差があるのは当然ではないか」と話した。彼女自身もBC級戦犯らを研究する初期には本を出してくれる出版社があるとは考えなかったと言った。日本帝国の協力者に関する内容だったためだ。
朝鮮人BC級戦犯問題 専門家
インドネシア独立英雄 ヤン・チルソンを明らかにして
戦後の国内外情勢や冷戦体制に振り回され、まともに照明を当てられない問題がBC級戦犯意外にもいくつもある。サハリン残留同胞やシベリア抑留問題もその内の一つだ。内海は日本の平和運動が戦後に陥った独特の構造の中で、市民運動家たちもこういう問題の意味を理解できなかったと語った。そうするうちに冷戦体制の隙間が広がり、被害当事者の証言と関連資料の公開,専門研究者の登場が相俟って新しい流れが形成されたということだ。
-巨視的質問から始めよう。強制併合が100年前のことだが両国の葛藤は相変わらずで歴史精算もなされなかった。どこに理由を求めなければならないか?
"敗戦後、日本に占領軍が入ってきて民主改革を行い、東京軍事裁判を開いた。裁判が終わるや戦争問題は一段落し、戦犯たちも既に清算されたという風潮ができた。ある意味で自己肯定意識が日本社会にできたのだ。また東京裁判過程で植民地問題が完全に抜け落ちてしまった。米国・英国・フランス・オランダは戦後に自国植民地に復帰させようとしたので植民地問題に触れなかった。これが朝鮮や台湾など旧植民地に対する日本人の見解を歪ませた。
冷戦の激化で日本の逆行が始まり、公職から追放された人々が復帰しアジア侵略や植民地支配に対する肯定的な思考が広まった。その上、サンフランシスコ講和会議が韓国と中国の参加を排除したまま開かれた。米国は中国の会議参加を断り、日本は韓国の参加を絶対に拒否するという姿勢を守った。米国は英国が中国の代表権を主張し、共産主義中国を認定できないとし日本に協力を要請した。そこで出てきたのが韓国と中国の参加を排除した講和条約と2国間条約であり、米-日安保条約がそれとかみ合っている。戦争の仕上げをすることが戦犯裁判と講和条約なのに、2つが共に誤ったので歴史的清算になるはずがなかった。"
米・英, 国益のために植民問題排除
日本, 冷戦背負い過去侵略を正当化
-戦後、日本の歴史教育はどのようだったか?
"私は戦後教育の寵児と言うことができる。初めから民主教育を受けて育った。米国との関係は多く習ったが学習しなかったことがある。戦争とアジアとの関係だ。くやしいことだが朝鮮人・中国人の強制連行を全く知らなかった。当時は関東大震災時の朝鮮人虐殺問題も教科書に載らなかった。そのような歴史を学び育った人がアジアとの関係が上手なはずがない。当時、日本の歴史研究は明治維新程度で終わっていた。"
-その背景は何か?
“基本的に近現代史は研究者がすべき仕事ではないと考えられていた。今でも歴史学界の方式は文書資料が公開されれば、それを検証し歴史を書くというものだ。資料が何も出てこない状態で関係者の証言だけで近現代史を書くということは困るという意識が強かった。研究をしようとしても就職できなかったために東京大学のようなところで近現代史をやる人がいなかった。せいぜいやっても辛うじて昭和初期が研究対象だった。現代史専攻1号教授と言っても良い先生は<東京裁判への道>を書いた粟屋憲太郎(1944年生まれ)程度だ。”
-日本の平和市民運動はサハリン残留同胞やシベリア抑留問題などに長い間冷淡だった。何か理由があるのか?
“戦後の平和運動は米国の原爆投下にともなう被害意識から社会党・共産党主導で展開した。そのような路線に乗りまっすぐ行ってしまったのでソ連が良くて米国は悪いといったイメージが固着された。それで平和運動の活動家たちはサハリンに放置された朝鮮人が韓国に行きたいと訴えれば‘なぜ軍事独裁政権に行くのか’と受けとめた。シベリア抑留問題も当事者が反共の立場で話す場合が多く、ほとんど理解することができなかった。朝鮮人BC級戦犯を支援する活動をすれば、なぜ戦犯を保護するかという声を聞いた。こういう風潮に大きな変化が来たのは、やはり冷戦が崩壊した以後だ。私の体験で言えば、社会党でも共産党でもなく、自分の頭で独自に植民地戦争の問題を考えてみようという考えは60年代に生じた。”
サンフランシスコ講和会議から
韓・中除外され、歴史清算できず
-韓半島に対する認識にも同様な流れがあったようだが。
“平和運動 進歩陣営で見れば、60年代以前には朝鮮との関係は日朝協会を中心になされた。北と近く韓国を指し示す時は常に括弧内に南朝鮮と書いた。日本人が朝鮮に対して何も知らないという反省の下、1961年‘日本朝鮮研究所’が設立されたことは象徴的だ。私は当時は関与しなかったし70年に入ったのだが、研究所の名前の前に日本を付けたことに意味があると聞いた。研究所には色々な指向の人々がいたが、独自に判断するという意志が込められたのだ。当時でも朝鮮関連研究をやる人があまりいなかった。朝鮮人に対する差別と人権問題が発生すれば、総連や民団で少数の日本人たちを接待し助けてくれと言った。こういう集いをよく‘ヤキニク会合’と呼んだ。私と考え方が似ている研究者たちは、総連や民団が主催するパーティーには一切行かなかった。行くことになれば義務感ができ、きちんと批判できなくなると判断した。そのような姿勢で熱心に仕事をした人が梶村秀樹(1935~1989)だったが惜しくも早く亡くなった。独自的運動方式を守ったために受けたストレスと関連があるだろう。梶村は‘イエスマン’ではなく、日本人だけでなく民団・総連両側から批判を受けた。”
-韓国に対する日本社会の認識はどのように固まったか?
“まず植民地支配に対する審判がなされなかった状態で南北が分断された。私たちの世代が記憶する印象は2種類ある。李承晩ラインを越えたとして拿捕される日本漁船,日本の闇市を支配する‘第三国人’というイメージだ。そこに朝鮮戦争が重なる。それで特に市民運動側では韓国民衆の姿が見えなかった。もう一つは社会主義幻想の中で、南側はめちゃくちゃだが北側は良いという意識があった。それが帰国運動(北送事業)に繋がった。私が韓国にも私たちのような民衆がいて、闘争しているということを初めて認識したのが4・19革命だ。大学1年の時でよく覚えている。韓国で民主主義のために戦っている人がいるということは日本の運動側にとって大きな衝撃だった。4・19は1960年の日本の6・15安保闘争にも影響を与えた。
65年の韓日条約締結の時には日本でも反対運動があったが、主に軍事同盟反対が理由だった。植民地清算問題と関連があるということはほとんど認識されていなかった。今でも話されていることだが,当時のスローガンの一つが‘ポクニヤルノワポクニクレ’だった。(姓氏‘朴’の日本語発音は‘私’という意のポクと同じだ。パクに与えることは私にくれという意味)有・無償合わせて5億ドルが植民地支配清算ではなく朴正煕に5億を捧げるということと認識されていた。”
韓国4・19民主主義運動の衝撃
日本の6・15安保闘争に影響
-三国人という言葉は2000年に石原慎太郎東京都知事が陸上自衛隊基地で行った演説で使い物議をかもしたことがある。当初から差別的意味が込められていたのか?
“当事者でない第三者という意味で、本来は中立的な言葉だ。戦後、占領軍司令部が日本政府に覚書や指令を送り、統治をするのに日本居住朝鮮人・台湾人は日本人でもなく連合国人でもないので第3の範疇として使った。これら朝鮮人・台湾人の法的地位は非常に不安定だった。特に台湾人は中国が戦勝国であったために日本人との関係で法的地位が一時的に逆転した。それが感情的屈折を起こし沈殿物として残った。普通、日本人たちの感情では今まで自分より下にあると考えた人々が優位にのぼったことを受け入れるのが難しかった。以前には道であえば頭を下げ避けていたのに、今は避けないのみならず強気で出てくると機嫌を損ねたのだ。連合国の占領期間中、朝鮮人・台湾人に対ししばらく警察当局の行政力が届かなかった。当時の国会速記録を見れば‘朝鮮人が勝手に横行しているがなぜ取り締まりをまともにできないのか’という質問がたくさん出てくる。本来、朝鮮人という言葉は卑下の意味が含まれていた。それで週刊誌が麻薬取り引きなど法律違反行為者を記事で扱う時に問題にならない三国人という言葉をしばしば使った。それと共に非常に否定的イメージに変わった。”
-戦後補償運動に長い間関与した。日本社会でこの運動が持つ意味は何か?
“何よりも日本人の歴史認識を問い直すという点で重要だ。80年代に入り、アジア地域で戦争と植民地支配の被害者を呼び証言を聞く集会を開いた。歴史教育をきちんと受けることが出来ない日本人たちは、そのような集会を通じて全くわかっていないことを悟った。例えばインドネシアの被害者の証言を聞き‘いや日本がインドネシアを占領したことがあったか’という反応を示した。こういう過程を経て‘加害者としての責任’‘戦後責任’‘戦後補償’という用語がマスコミを通じ一般化された。”
‘強制動員真相究明ネットワーク’
韓国政府と協力 重要事例
-戦後清算と関連して日本はドイツと比較しだいぶ劣るとよく言われるが….
“ドイツで補償運動をする活動家に聞けば反対の話をする。ドイツで一般市民が自己責任の下で補償運動,清算運動をする人はいない。ドイツ政府が補償をしたことは事実だが、それも抜け落ちた弱点が多い。市民運動で問い詰めれば日本が先んじたということができる。”
-韓国で日帝被害犠牲者らに対する本格的調査はノ・ムヒョン政権時に政府次元の調査委員会が構成されて始まった。個別研究は日本人学者が先立ってしたという感じがする。
“そうでもない。個人的な話をすれば70年代に結婚して姑に関東大震災の時の記憶を聞いたことがある。朝鮮人が井戸に毒を入れて襲撃してくると大騒ぎだったと話した。それをまだ信じているのかと尋ねたところ‘なに、それが嘘だと?’と反問したよ。戦後もその時まで姑の意識を変える歴史研究がなかった。それが誤りだと初めて書いたのが姜徳相教授の本だ。朝鮮人強制連行に対してもパク・ギョンシク先生の本が初めだ。人々が部分的には知っていたが、歴史的資料を通じて本格的な本を出したのは在日同胞学者たちだ。結局、日本人たちは各自口では話していても、まともに考えてはいないのではないかという反省が起こった。ザイニチ(在日同胞)たちは自分たちの問題であるから必死に研究し、日本社会に投じたのだ。また韓国社会は民主化のための闘争に長い間専念するほかはなかった事情がある。”
-‘強制動員真相究明ネットワーク’の共同代表も受け持っているが、どんな活動をしているのか?
“徴兵,徴用などで強制連行され犠牲になった人がいれば、遺族たちにいつどこでどのように死んだのかを知らせることが日本政府の最低義務だ。しかし、日本政府は立ち上がってこういう仕事をしなかった。韓国人遺族たちがしつこく問い合わせをして、軍歴証明書のような文書を受けとっても何の内容なのか理解するのが難しかった。それで政府がしないならば市民の力で行おうと同意を集め、各地域の市民団体や研究者らが結合して情報を共有するネットワークを作ったのだ。私たちは厚生労働省に直接資料を要請する訳には行かないが、遺族の委任状があれば代わりに照会が可能だ。韓国の強制動員真相究明委とも緊密に協力をしている。強制動員真相究明委の依頼があれば私たちの知恵を集めて返事をする。韓国政府の真相究明作業と日本の市民運動が協力する重要な事例だ。ところがより一層重要なのは、日本政府,特に厚生労働省の消極的態度が変わらなければならないという点だ。”
朝鮮人問題 言論に言及すれば
右翼が夜明けに電話で殺害脅迫
-2000年東京で軍隊慰安婦関連国際民間法廷を開くのに深く関与した。右翼から直接威嚇を受けていないか?
“直接受けたのは恐らく民間法廷開催を主導した,松井やより(1934~2002.朝日新聞編集委員・市民運動家)だろう。この頃、右翼たちは個人よりはそのような行事を報道した朝日新聞やNHKのような報道機関を尋ね歩き威勢を張る。以前に朝鮮人差別問題や靖国神社合祀などに関し報道機関に論評をすれば、家に脅迫電話がかかってきたり郵便物が配達されたりした。右翼は明け方4時にも電話をかけて殺してやる,爆弾を設置するなどの脅迫をする。”
-そういう時はどのように対応をするか?
“夫が電話を受ける場合が多い。電話を切っても何度もかかってきて、夫が英語で話をすると中断されたこともある。” (笑い)
-松井やよりとともにアジア女性の差別問題にも大きい関心を見せてきた。学者と社会活動家どちら側により比重を置いているか?
“私を学者と考えたことはない。大学を卒業して教師をしている時も学者になりたいとは思わなかった。70年に日本朝鮮研究所で仕事をした時は、学者,活動家の区別はなかった。運動して学び、学んで運動したというのだろうか? 戦後日本の民法が改正され、女性差別がちょっと変わったのだが、私はその問題に敏感だった。60年代に大学で安保闘争をした時も、朝鮮人差別,民族差別はよく分からなかった。私たちが女性の平等を主張するならば民族差別と植民地問題も共に扱わなくてはいけないと考えた。” <1部 終わり>
東京/キム・ヒョスン論説委員hyoskim@hani.co.kr
内海 略歴
1941年生まれ
早稲田大卒,早稲田大学院博士課程
恵泉女学院大教授
早稲田大学院アジア太平洋研究科客員教授
強制動員真相究明ネットワーク共同代表
著書<赤道下の朝鮮人叛乱>(1980)<朝鮮人BC級戦犯の記録>(1982)<シネアスト許泳の昭和>(1987)<日本軍の捕虜政策>(2005)<キムはなぜ裁かれたのか>(2008)
原文: http://www.hani.co.kr/arti/SERIES/233/397662.html 訳J.S
http://www.hani.co.kr/arti/SERIES/233/397662.html


도쿄전범재판때 ‘식민지배’는 거론도 안해
일본에 ‘조선문제 청산’ 왜곡된 시각 심어줘
등록 : 2010.01.07 20:43수정 : 2010.01.07 20:52


우쓰미 아이코 와세다대학원 객원교수는 강제연행이나 조선인 학살 문제를 먼저 파헤친 것은 재일 학자들이라고 말했다. 박종식 기자 anaki@hani.co.kr
[2010 특별기획 성찰과 도전] 경술국치 100년 새로운 100년
⑤ 우쓰미 아이코




우쓰미 아이코 교수는 자타가 공인하는 조선인 비시(BC)급 전범 문제의 전문가다. 1970년대 20대 후반의 나이에 남편을 따라 인도네시아에 갔다가, 일제 때 징집됐던 한 조선 청년의 기막힌 삶을 우연히 알게 된 것이 전기가 됐다. 인도네시아에 배치됐던 조선인 병사들 가운데 일부는 일본 항복 후 현지인 독립운동 세력에 가담해 네덜란드군과 싸우다 처형당했다. 그중에는 독립운동 공적이 인정돼 뒤늦게 인도네시아 영웅묘지에 묻히게 된 조선인이 있었는데. 주자카르타 주재 일본대사관이 이 조선인의 뒤처리에 아무 관심을 보이지 않았다. 분개한 우쓰미는 그의 본명이 양칠성이라는 것을 밝혀내고 78년 가족이 살고 있는 전북 완주 삼례로 찾아가 죽음에 이르게 된 과정을 알렸다.(<한겨레> 2008년 12월19일치 참조) 그는 긴 세월 이 문제를 파고들어 적지 않은 저서와 자료집을 냈다.
유감스럽게도 한국에는 아직 이 분야의 전문가가 드러나지 않았다. 현실적으로 30여년의 격차가 있는 셈이다. 지난해 11월2일 도쿄에서 만난 그에게 그 이유를 물었더니 “한국은 민주화 투쟁을 하느라고 다른 일에 신경 쓸 여유가 없었으니 시간차가 당연하지 않으냐”고 말했다. 그 자신도 비시급 전범들을 연구할 초기에는 책으로 내줄 출판사가 있으리라고 생각하지 않았다고 했다. 일본 제국의 협력자들에 관한 내용이었기 때문이다.

조선인 BC급 전범 문제 전문가
인니 독립영웅 양칠성 밝혀내

전후의 국내외 정세나 냉전체제에 휘둘려 제대로 조명을 받지 못한 문제가 비시급 전범 말고도 여러 개 있다. 사할린 잔류동포나 시베리아 억류 문제도 그중의 하나다. 우쓰미는 일본의 평화운동이 전후 빠져든 독특한 구조 속에서 시민운동가들도 이런 문제들의 의미를 이해하지 못했다고 했다. 그러다가 냉전체제의 틈이 벌어지면서 피해 당사자들의 증언과 관련 자료의 공개, 전문 연구자들의 등장이 맞아떨어지면서 새로운 흐름이 형성됐다는 것이다.

-거시적 질문에서 시작하자. 강제병합이 100년 전의 일인데도 두 나라의 갈등은 여전하고 역사 청산도 이뤄지지 않았다. 어디에서 이유를 찾아야 하나?

“패전 후 일본에 점령군이 들어와 민주개혁을 하고 도쿄군사재판을 열었다. 재판이 끝나자 전쟁 문제는 일단락됐고 전범들도 이제 청산됐다는 풍조가 생겼다. 어느 의미에서 자기긍정 의식이 일본 사회에 생긴 것이다. 또 도쿄 재판 과정에서 식민지 문제가 완전히 빠져 버렸다. 미국·영국·프랑스·네덜란드는 전후 자국 식민지에 복귀하려고 했기 때문에 식민지 문제를 건드리지 않았다. 이것이 조선이나 대만 등 옛 식민지에 대한 일본인의 시각을 왜곡시켰다.



경술국치 100년 새로운 100년 ⑤ 우쓰미 아이코
냉전의 격화로 일본에서 역코스가 시작되면서 공직에서 추방됐던 인사들이 복귀하고 아시아 침략이나 식민지 지배에 대한 긍정적인 사고가 번져갔다. 거기에 샌프란시스코 강화회의가 한국과 중국의 참가를 배제한 채 열렸다. 미국은 중국의 회의 참가를 거절했고, 일본은 한국의 참가를 절대 거부한다는 자세를 고수했다. 미국은 영국이 중국의 대표권을 주장하자, 공산주의 중국을 인정할 수 없다며 일본에 협력을 요청했다. 그래서 나온 것이 한국과 중국의 참여를 배제한 강화조약과 2국 간 조약이고, 미-일안보조약이 그것과 맞물려 있다. 전쟁의 마무리를 하는 것이 전범재판과 강화조약인데 두 가지가 다 잘못됐으니 역사적 청산이 될 리가 없었다.”
미·영, 국익위해 식민문제 배제
일, 냉전 업고 과거침략 정당화

-전후 일본의 역사교육은 어떠했나?

“나는 전후교육의 총아라고 할 수 있다. 처음부터 민주교육을 받고 자랐다. 미국과의 관계는 많이 배웠지만 학습하지 않은 것이 있다. 전쟁과 아시아와의 관계다. 분한 일이지만, 조선인·중국인의 강제연행을 전혀 몰랐다. 당시에는 간토대지진 때 조선인 학살 문제도 교과서에 실리지 않았다. 그런 역사를 배우고 자란 사람이 아시아와의 관계를 잘할 수가 없다. 당시 일본 역사 연구는 메이지유신 정도에서 끝났다.”

-그런 배경은 무엇인가?

“기본적으로 근현대사는 연구자들이 할 일이 아니라고 생각했다. 이제까지 역사학계의 방식은 문서자료가 공개되면 그것을 검증해서 역사를 쓴다는 것이다. 자료가 다 나오지 않은 상태에서 관계자의 증언만으로 근현대사를 쓴다는 것은 곤란하다는 의식이 강했다. 연구를 하려 해도 취직이 안 됐기 때문에 도쿄대학 같은 곳에서 근현대사를 하는 사람이 없었다. 하더라도 겨우 쇼와 초기가 연구 대상이었다. 현대사 전공 1호 교수라고 해도 좋을 선생이 <도쿄재판으로의 길>을 쓴 아와야 겐타로(1944년생) 정도다.”

-일본의 평화 시민운동은 사할린 잔류 동포나 시베리아 억류 문제 등에 오랜 기간 냉담했다. 무슨 연유가 있는 건가?

“전후 평화운동은 미국의 원폭 투하에 따른 피해의식에서 사회당·공산당 주도로 전개됐다. 그런 노선에 올라타서 쭉 가버렸기 때문에 소련이 좋고 미국은 나쁘다는 식의 이미지가 고착됐다. 그래서 평화운동의 활동가들은 사할린에 방치된 조선인들이 한국에 가고 싶다고 호소하면 ‘왜 군사독재정권에 가나’ 하고 받아들였다. 시베리아 억류 문제도 당사자들이 반공 입장에서 얘기하는 경우가 많아 거의 이해하지를 못했다. 조선인 비시급 전범을 지원하는 활동을 하면 왜 전범을 비호하느냐는 소리를 들었다. 이런 풍조에 큰 변화가 온 것은 역시 냉전이 붕괴된 이후다. 나의 체험에서 얘기하면, 사회당도 공산당도 아니고 자신의 머리로 독자적으로 식민지 전쟁의 문제를 생각해보자는 고민은 60년대에 생겨났다.”

샌프란시스코 강화회의에서
한·중 제외돼 역사청산 못해

-한반도에 대한 인식에서도 비슷한 흐름이 있었던 것 같다.

“평화운동 진보진영에서 보면 60년대 이전 조선과의 관계는 일조협회를 중심으로 이뤄졌다. 북과 가까웠고 한국을 지칭할 때는 항상 괄호 안에 남조선이라 썼다. 일본인이 조선에 대해 아무것도 모른다는 반성 아래 1961년 ‘일본조선연구소’가 설립된 것은 상징적이다. 나는 당시에는 관여하지 않았고 70년에 들어갔지만, 연구소 이름 앞에 일본을 붙인 것이 의미가 있다고 들었다. 연구소에 여러 성향의 사람들이 있었지만, 독자적으로 판단한다는 뜻이 담긴 것이다. 당시만 해도 조선 관련 연구를 하는 사람이 별로 없었다. 조선인에 대한 차별과 인권 문제가 발생하면 총련이나 민단에서 소수의 일본인들을 접대하며 도와달라고 했다. 이런 모임을 흔히 ‘야키니쿠 회합’ 이라고 했다. 나와 생각이 비슷한 연구자들은 총련이나 민단이 주최하는 파티에는 일체 가지 않았다. 가게 되면 의무감이 생겨 제대로 비판하지 못한다고 판단했다. 그런 자세로 열심히 일한 사람이 가지무라 히데키(1935~1989)인데 아깝게도 일찍 죽었다. 독자적 운동방식을 고수하면서 받은 스트레스와 관련이 있을 것이다. 가지무라는 ‘예스맨’이 아니어서 일본인뿐만 아니라 민단·총련 양쪽에서 비판을 받았다.”

-한국에 대한 일본사회의 인식은 어떻게 굳어졌나?

“우선 식민지 지배에 대한 심판이 이뤄지지 않은 상태에서 남북이 분단됐다. 우리 세대가 기억하는 인상은 두 가지 있다. 이승만 라인을 넘었다고 계속 나포되는 일본 어선, 일본의 암시장을 지배하는 ‘제3국인’ 이라는 이미지다. 거기에 한국전쟁이 겹친다. 그래서 특히 시민운동 쪽에서는 한국 민중의 모습이 보이지 않았다. 또 하나는 사회주의 환상 속에서 남쪽은 엉망이지만 북쪽은 좋다는 의식이 있었다. 그것이 귀국운동(북송사업)으로 이어졌다. 내가 한국에도 우리와 같은 민중이 있어 투쟁하고 있다는 것을 처음 인식하게 된 것이 4·19혁명이다. 대학 1학년 때라 잘 기억한다. 한국에서 민주주의를 위해 싸우는 사람이 있다는 것은 일본의 운동 쪽에 큰 충격이었다. 4·19는 1960년 일본의 6·15 안보투쟁에도 영향을 주었다.

65년 한일조약 체결 때 일본에서도 반대 운동이 있었지만, 주로 군사동맹 반대가 이유였다. 식민지 청산 문제와 관련이 있다는 것은 거의 인식되지 않았다. 지금도 말해지고 있는 것이지만, 당시 구호의 하나가 ‘보쿠니 야루노와 보쿠니 구레’였다.(성씨 ‘박’의 일본어 발음은 ‘나’라는 뜻의 보쿠와 같다. 박에게 줄 것은 나에게 달라는 뜻) 유·무상 합쳐 5억달러가 식민지 지배 청산이 아니라 박정희에게 5억을 갖다 바친다는 것으로 인식됐다.”

남한 4·19 민주주의 운동 충격
일본의 6·15 안보투쟁에 영향

-3국인이란 말은 2000년 이시하라 신타로 도쿄 도지사가 육상자위대 기지에서 한 연설에서 사용해 물의를 빚은 적이 있다. 처음부터 차별적 의미를 담고 있었나?

“당사자 아닌 3자라는 의미에서 원래는 중립적 말이다. 전후 점령군 사령부가 일본 정부에 각서나 지령을 보내 통치를 하는데, 일본 거주 조선인·대만인은 일본인도 아니고 연합국인도 아니니 제3의 범주로 사용했다. 이들 조선인·대만인의 법적 지위는 대단히 불안정했다. 특히 대만인은 중국이 전승국이었으니 일본인과의 관계에서 법적 지위가 일시적으로 역전됐다. 그것이 감정적 굴절을 일으켜 앙금으로 남았다. 보통 일본인들의 감정으로는 이제까지 자신보다 밑에 있다고 생각하던 사람들이 우위에 올라선 것을 받아들이기가 어려웠다. 예전에는 길에서 마주치면 머리를 조아리며 피해갔는데 이제는 피하지 않을뿐더러 뻣뻣하게 나오니 기분이 상한 것이다. 연합국의 점령 기간 중 조선인·대만인들에 대해 한동안 경찰당국의 행정력이 미치지 못했다. 당시 국회 속기록을 보면 ‘조선인들이 멋대로 설치는데 왜 단속을 제대로 못하느냐’는 질문이 많이 나온다. 원래 조선인(조센진)이라는 말은 비하의 의미가 담겨 있었다. 그래서 주간지가 마약 거래 등 범법행위자를 기사로 다룰 때 말썽이 나지 않을 3국인이라는 말을 자주 썼다. 그러면서 대단히 부정적 이미지로 바뀌었다.”

-전후 보상운동에 오랜 기간 관여했다. 일본 사회에서 이 운동이 갖는 의미는 무엇인가?

“무엇보다도 일본인의 역사인식을 다시 묻는다는 점에서 중요하다. 80년대에 들어 아시아 지역에서 전쟁과 식민지 지배의 피해자들을 불러 증언을 듣는 집회를 열었다. 역사교육을 제대로 받지 못한 일본인들은 그런 집회를 통해 전혀 몰랐던 것을 깨쳤다. 예를 들어 인도네시아인 피해자의 증언을 듣고 나서 ‘아니 일본이 인도네시아를 점령한 적이 있었나’라는 반응을 보였다. 이런 과정을 거쳐 ‘가해자로서의 책임’ ‘전후 책임’ ‘전후 보상’이라는 용어가 매스컴을 통해 일반화됐다.”

‘강제동원 진상규명 네트워크’
한국 정부와 협력 중요 사례

-전후 청산과 관련해 일본은 독일과 비교해 상당히 떨어진 것으로 흔히 얘기되는데….

“독일에서 보상운동 하는 활동가들에게 들으면 반대로 얘기를 한다. 독일에서 일반 시민들이 자기 책임 아래 보상운동, 청산운동을 하는 것은 없다. 독일 정부가 보상을 한 것은 사실이지만 그것도 빠진 구석이 많다. 시민운동으로 따지면 일본이 앞섰다고 할 수 있다.”

-한국에서 일제 피해 희생자들에 대한 본격적 조사는 노무현 정권 때 정부 차원의 조사위원회가 구성되면서 시작됐다. 개별 연구는 일본인 학자들이 앞서 했다는 느낌이 든다.

“그렇지도 않다. 개인적 얘기를 하면 70년대 결혼하고 나서 시어머니에게 간토대지진 때의 기억을 들은 적이 있다. 조선인이 우물에 독을 풀어놓고 습격해 온다고 난리였다고 말했다. 그것을 아직 믿느냐고 물었더니 ‘아니 그게 거짓말이라구?’라고 반문하더라. 전후 그때까지 시어머니의 의식을 바꿀 역사 연구가 없었다. 그것이 틀린 것이라고 처음 쓴 것이 강덕상 교수의 책이다. 조선인 강제연행에 대해서도 박경식 선생의 책이 처음이다. 사람들이 부분적으로는 알고 있었지만, 역사적 자료를 통해 본격적인 책을 낸 것은 재일동포 학자들이다. 결국 일본인들은 제각기 입으로는 말하면서도 제대로 생각하지 않고 있는 것이 아니냐는 반성이 일었다. 자이니치(재일동포)들은 자신들의 문제이니까 필사적으로 연구해 일본 사회에 던진 것이다. 또한 한국 사회는 민주화를 위한 투쟁에 오랜 기간 빠질 수밖에 없던 사정이 있다.”

-‘강제동원 진상규명 네트워크’의 공동대표도 맡고 있는데 어떤 활동을 하나?

“징병, 징용 등으로 강제연행돼 희생된 사람이 있으면 유족들에게 언제 어디서 어떻게 죽었는지 알려주는 것이 일본 정부의 최저 의무다. 그러나 일본 정부는 나서서 이런 일을 하지 않았다. 한국인 유족들이 끈질기게 문의를 해 군력증명서 같은 문서를 받더라도 무슨 내용인지 이해하기가 어려웠다. 그래서 정부가 하지 않는다면 시민의 힘으로 하자고 뜻을 모아 각 지역의 시민단체나 연구자들이 결합해 정보를 공유하는 네트워크를 만든 것이다. 우리는 후생노동성에 직접 자료를 요청할 수는 없지만, 유족의 위임장이 있으면 대신 조회가 가능하다. 한국의 강제동원 진상규명위와도 긴밀하게 협조를 하고 있다. 강제동원 진상규명위의 의뢰가 있으면 우리의 지혜를 모아 답변을 한다. 한국 정부의 진상규명 작업과 일본의 시민운동이 협조하는 중요한 사례다. 그렇지만 더욱 중요한 것은 일본 정부, 특히 후생노동성의 소극적 태도가 달라져야 한다는 점이다.”

조선인 문제 언론에 언급하면
우익, 새벽에 전화로 살해협박

-2000년 도쿄에서 군대위안부 관련 국제민간법정을 여는 데 깊이 관여했다. 우익으로부터 직접 위협을 받지 않았나?

“직접 받은 것은 아마도 민간법정 개최를 주도한 마쓰이 야요리(1934~2002. 아사히신문 편집위원·시민운동가)일 것이다. 요즘 우익들은 개인보다는 그런 행사를 보도한 아사히신문이나 엔에이치케이(NHK) 같은 언론매체를 찾아다니며 위세를 부린다. 이전에 조선인 차별 문제나 야스쿠니신사 합사 등에 관해 언론기관에 논평을 하면 집으로 협박전화가 걸려오거나 우편물이 배달되곤 했다. 우익들은 새벽 4시에도 전화를 걸어 죽여버리겠다, 폭탄을 설치하겠다는 등의 협박을 한다.”

-그럴 때는 어떻게 대응을 하나?

“남편이 전화를 받는 경우가 많다. 전화를 끊어도 계속 걸려와 남편이 영어로 말을 하니까 중단된 적도 있다.” (웃음)

-마쓰이 야요리와 함께 아시아 여성들의 차별 문제에도 큰 관심을 보여 왔다. 학자와 사회활동가 어느 쪽에 더 비중을 두고 있나?

“나를 학자로 생각하지 않았다. 대학을 나와 교사 할 때도 학자 되고 싶은 생각은 없었다. 70년 일본조선연구소에서 일할 때는 학자, 운동가 구별 없이 했다. 운동하면서 배우고 배우면서 운동했다고 할까? 전후 일본의 민법이 개정돼 여성 차별이 좀 달라지기는 했지만, 나는 그 문제에 민감했다. 60년대 대학에서 안보투쟁을 할 때도 조선인 차별, 민족 차별은 잘 몰랐다. 우리가 여성의 평등을 주장한다면 민족 차별과 식민지 문제도 함께 다루지 않으면 안 된다고 생각했다.” <1부 끝>

도쿄/김효순 대기자 hyoskim@hani.co.kr

우쓰미 약력

1941년생

와세다대 졸, 와세다대학원 박사과정

게이센여학원대 교수

와세다대학원 아태연구과 객원교수

강제동원 진상규명 네트워크 공동대표

저서 <적도하 조선인 반란>(1980) <조선 인BC급 전범의 기록>(1982) <시네아티스 트 허영의 쇼와>(1987) <일본군의 포로정 책>(2005) <김은 왜 심판받았는가>(2008)


http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/995700.html





2010年01月14日12:44
東京・大阪など5ヶ所‘連帯集会’… "胸が痛く申し訳ない"
カテゴリ社会
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原文入力:2010-01-13午後08:43:53
キム・トヒョン記者
←13日午後、日本,東京,永田町の国会議事堂前で市民団体会員40人余りが‘日本政府よ! 償いができる時を逃すな’という内容の横断幕を持ち韓国の水曜集会に連帯する集会を開いている。
"過去の被害が未解決のまま忘れ去られれば、また別の被害につながります。"韓国で日本軍慰安婦被害者ハルモニたちの900回目の水曜集会が開かれた13日午後、日本,東京,永田町の国会議事堂前でも連帯集会が開かれた。この日の連帯集会は東京だけでなく大阪,京都,名古屋,福岡など日本の5ヶ所で開催された。
‘戦時性暴行団体連絡協議会’が主催した東京集会に参加した40人余りは一様に加害者の責任意識を隠さなかった。ヤマダ ケイコ(69)‘戦争と女性に対する暴力’日本ネットワーク運営委員は「厳冬の中で高齢のハルモニたちが頑張っている姿を見ると胸が痛く、まだ問題が解決されないまま残っている現実が申し訳ない」と話した。前職が高校英語教師のヤマダは1980年代に<従軍慰安婦>という本を通じ、かつての日本軍が犯した集団性暴行を知ることになり、衝撃を受け授業時間に生徒たちにこういう事実を知らせてきたという。退職後には問題解決のために本格的に飛び込んだ。
キタムラ ケイコ(61)日本キリスト教教会協議会女性委員会副委員長は「来る7月参議院選挙の時、執権民主党はマニフェスト(執権公約)に慰安婦問題解決を必ず明示しなければならない」と訴えた。過去の歴史直視を明らかにした民主党政権も慰安婦問題に対しては明確な努力をしていない点を指摘したのだ。
日本では1993年従軍慰安婦の強制連行認定と日本政府の謝罪を入れた‘河野談話’が発表された以後、一時相当数の中学校教科書に慰安婦関連記述が含まれたが現在は2ヶに減った。1990年代末以後、自民党右派政治家たちの影響と右翼団体の圧力で関連記述が削除されたのだ。記述削除の先頭に立った2007年安倍晋三当時総理は従軍慰安婦の強制連行はなかったと主張しもした。
このために草の根運動団体らは歴史教科書記述復活運動と政府の解決努力を要求する地方自治体決議文採択運動など、下からの運動を活発に行っている。13日現在、15ヶ所の地方議会で政府の責任認定と教科書慰安婦記述復活などを要求する決議文を採択している。
東京/文・写真キム・トヒョン特派員aip209@hani.co.kr
原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/398712.html 訳J.S

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/398712.html


도쿄·오사카 등 5곳 ‘연대집회’…“가슴 아프고 죄송스러워”
등록 : 2010.01.13 20:43
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13일 오후 일본 도쿄 나가타초 국회의사당 앞에서 시민단체 회원 40여명이 ‘일본 정부여! 보상할 수 있는 때를 놓치지 말아라’라는 내용의 펼침막을 들고 한국의 수요집회에 연대하는 집회를 열고 있다.
“과거의 피해가 미해결인 채로 잊혀지는 것은 또다른 피해로 이어집니다.”
한국에서 일본군 위안부 피해자 할머니들의 900번째 수요집회가 열린 13일 오후, 일본 도쿄 나가타초 국회의사당 앞에서도 연대집회가 열렸다. 이날 연대집회는 도쿄뿐 아니라 오사카, 교토, 나고야, 후쿠오카 등 일본 다섯 곳에서 개최됐다.

‘전시 성폭력단체 연락협회’가 주최한 도쿄집회에 참석한 40여명은 한결같이 가해자의 책임의식을 감추지 않았다. 야마다 게이코(69) ‘전쟁과 여성에 대한 폭력’ 일본네트워크 운영위원은 “엄동의 추위 속에서 나이 든 할머니들이 애를 쓰는 모습을 보면 가슴이 아프고, 아직도 문제가 해결되지 않은 채 남아 있는 현실이 죄송스럽다”고 말했다. 전직 고교 영어교사인 야마다는 1980년대 <종군위안부>란 책을 통해 옛 일본군이 저지른 집단 성폭력을 알게 돼 충격을 받고 수업시간에 학생들에게 이런 사실을 알려왔다고 한다. 퇴직 뒤에는 문제 해결을 위해 본격적으로 뛰어들었다.

기타무라 게이코(61) 일본기독교교회협의회 여성위원회 부위원장은 “오는 7월 참의원 선거 때 집권 민주당은 매니페스토(집권공약)에 위안부 문제 해결을 반드시 명시해야 한다”고 호소했다. 과거사 직시를 천명한 민주당 정권도 위안부 문제에 대해서는 뚜렷한 노력을 하지 않는 점을 지적한 것이다.

일본에서는 1993년 종군 위안부의 강제연행 인정과 일본 정부의 사과를 담은 ‘고노 담화’가 발표된 이후 한때 상당수 중학교 교과서에 위안부 관련 기술이 포함됐으나, 현재는 두 곳으로 줄어들었다. 1990년대 말 이후 자민당 우파 정치인들의 입김과 우익단체의 압력으로 관련 기술이 삭제된 것이다. 기술 삭제에 앞장섰던 2007년 아베 신조 당시 총리는 종군 위안부의 강제연행은 없었다고 주장하기도 했다.

이 때문에 풀뿌리 운동단체들은 역사교과서 기술 부활운동과 정부의 해결 노력을 요구하는 지자체 결의문 채택운동 등 밑으로부터의 운동을 활발하게 벌이고 있다. 13일 현재 15곳의 지방의회에서 정부의 책임 인정과 교과서 위안부 기술 부활 등을 요구하는 결의문을 채택했다.

도쿄/글·사진 김도형 특파원 aip209@hani.co.kr

http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/995660.html


2010年01月14日12:21
"日本は謝罪せよ" 18年 終始一貫した叫び
カテゴリ社会
原文入力:2010-01-13午後11:15:09
[現場] 慰安婦ハルモニたち 900回目‘水曜集会’
キム・ミンギョン記者,イ・ジョングン記者


↑13日昼、日本軍慰安婦問題解決のための900回目の‘水曜集会’が開かれたソウル,鍾路区,中学洞の日本大使館前でキル・ウォンオク ハルモニ(前列中央で立っている人)が日本政府の公式謝罪と法的賠償などを要求している。1992年1月8日に始まったこの集会は8日で満18年をむかえた。 イ・ジョングン記者root2@hani.co.kr
寒波にも負けず200人余りが集まり
公式謝罪・被害補償 要求
"口を閉じても罪は無くならない
両国政府の対応が恥ずかしい"
6年ぶりに最も寒かった13日、日中気温零下12度の厳しい寒さに耐え80才を越えたハルモニたちが通りに出た。今回が900回目だ。
この日昼12時、ソウル,鍾路区,中学洞の日本大使館前。キル・ウォンオク(83)ハルモニなど日本軍‘慰安婦’被害者ハルモニ4人組が最前列に並んで座った。‘日本軍慰安婦問題解決のための定期水曜デモ’という横断幕も膝の前面に拡げた。1992年1月8日から水曜日ごとに18年間開かれ続けた‘水曜集会’が900回をむかえたのだ。
キル ハルモニはこの日も真っ赤な手袋をはめた手を挙げて「謝罪せよ,謝罪せよ」と叫んだ。1940年、当時12才だったハルモニは 「金を稼げるようにする」という話にだまされ解放される時まで中国で慰安婦として過ごした。歳をとってからは慰安婦問題を知らせるために世界を歩き回った。彼女は水曜集会が900回に至るまで公式謝罪さえしない日本政府と、これを見守ってばかりいる韓国政府に苦言を呈した。「正義は生きているのでいつかは勝利する、口を閉じていれば罪がなくなるとは考えません。恥ずかしいのは私たちではなく、まさに韓国・日本政府です。」
普段40~50人が参加する水曜集会には、この日200人以上が参加した。その場には雪が降ろうが雨が降ろうがハルモニたちと共にした‘韓国挺身隊問題対策協議会’(挺身隊対策協)とハルモニたちの憩い場である‘ナムヌの家’関係者たちも席を守った。日本から渡ってきて2006年から水曜集会に毎回参加してきたナムヌの家研究員,村山一平(30)は「900という数字の重さを日本の人々も韓国の人々も分からなければならないでしょうに…」として喉を詰まらせた。
小学生2人の娘と共に参加したウォン・ジェヨン(39)氏は「ハルモニたちが高齢で、残されている時間も長くないのに、未だに集会に出てこなければならない現実が心痛い」として「子供たちに歴史の意味を知らせたくて参加した」と話した。1993年から政府に慰安軍被害者として登録された234人中、生存者は現在87人に過ぎない。147人のハルモニたちが胸に恨を抱いたまま亡くなった。慰安婦被害者カン・イルチュル(82)ハルモニは「謝罪を聞くまで私は死なない。私たちが皆死ぬ前に解決されなければならない」と強調した。
集会参加者たちは声明を出し「900回の示威にも少しも動かない鉄門は私たちにあきらめろと言うが、日本政府が責任を認め解決するその日まで止めない」として、日本政府の公式謝罪と賠償を要求した。今年で結成20周年をむかえる挺身隊対策協は、慰安婦問題解決要求のために韓国・日本両国で市民署名を集めている。この日の水曜集会は日本・ドイツでも同時に開かれ、日本民主党衆議院議員1人と参議院2人,日本の市民団体‘慰安婦問題の立法解決を要求する会’,‘国際アムネスティ’等は連帯声明を送った。
慰安婦問題は1965年韓日協定締結当時には議論にさえならず、日本政府は一貫して "民間がしたこと" として軍の介入を否定してきた。そうするうちに1993年に河野洋平官房長官が日本軍の慰安婦連行への介入を認めた‘河野談話’を発表したものの相変らず公式謝罪などはなかった。今年は庚戌国恥100年,解放65年になる年だ。
キム・ミンギョン記者salmat@hani.co.kr
原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/398713.html 訳J.S

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/398713.html



“일본은 사죄하라” 18년째 한결같은 외침
등록 : 2010.01.13 20:45수정 : 2010.01.13 23:15


13일 낮 일본군 위안부 문제 해결을 위한 900번째 ‘수요집회’가 열린 서울 종로구 중학동 일본대사관 앞에서 길원옥 할머니(앞줄 가운데 서 있는 이)가 일본 정부의 공식 사과와 법적 배상 등을 촉구하고 있다. 1992년 1월8일 시작된 이 집회는 8일로 만 18년을 맞았다. 이종근 기자 root2@hani.co.kr
[현장] 위안부 할머니들 900번째 ‘수요집회’




한파에도 200여명 모여
공식사과·피해배상 촉구
“입 다문다고 죄 안없어져
양국 정부 대응 부끄럽다”

6년 만에 가장 추웠던 13일, 낮 기온 영하 12도의 매서운 추위를 견디며 여든 살을 넘긴 할머니들이 거리에 나섰다. 이번이 900번째다.

이날 낮 12시 서울 종로구 중학동 일본대사관 앞. 길원옥(83) 할머니 등 일본군 ‘위안부’ 피해자 할머니 네 분이 맨 앞에 나란히 앉았다. ‘일본군 위안부 문제 해결을 위한 정기 수요시위’라는 펼침막도 무릎 앞쪽에 들었다. 1992년 1월8일부터 수요일마다 18년 동안 열린 ‘수요집회’가 900회를 맞은 것이다.

길 할머니는 이날도 빨간 손장갑을 낀 손을 들어 “사죄하라, 사죄하라”고 외쳤다. 1940년, 당시 12살이었던 할머니는 “돈을 벌게 해주겠다”는 말에 속아 해방될 때까지 중국에서 위안부로 보냈다. 나이 든 뒤엔 위안부 문제를 알리기 위해 세계를 돌아다녔다. 그는 수요집회가 900회에 이르기까지 공식 사과조차 없는 일본 정부와, 이를 지켜보고만 있는 한국 정부에 쓴소리를 했다. “정의는 살아 있기에 언젠가는 승리할 것이며, 입 다물고 있다고 죄가 없어진다고 생각하지 않습니다. 부끄러운 건 우리가 아니라 바로 한·일 정부입니다.”

평소 40~50명이 참여하던 수요집회엔 이날 200명이 넘게 참가했다. 그 자리엔 눈이 오나 비가 오나 할머니들과 함께한 ‘한국정신대문제대책협의회’(정대협)와 할머니들의 쉼터인 ‘나눔의 집’ 관계자들도 자리를 지켰다. 일본에서 건너와 2006년부터 수요집회에 늘 참가해온 나눔의 집 연구원 무라야마 잇페이(30)는 “900이란 숫자의 무거움을 일본 사람들도, 한국 사람들도 알아야 할 텐데…”라며 말끝을 잇지 못했다.

초등학생 두 딸과 함께 나온 원재연(39)씨는 “할머니들이 연세가 많아 사실 날도 얼마 남지 않았는데, 아직도 집회에 나와야 하는 현실이 마음 아프다”며 “아이들에게 역사의 의미를 알려주고 싶어 나왔다”고 말했다. 1993년부터 정부에 위안군 피해자로 등록된 234명 중 생존자는 현재 87명에 불과하다. 147명의 할머니들이 가슴에 한을 품고 세상을 떠났다. 위안부 피해자 강일출(82) 할머니는 “사죄하기 전까지 난 안 죽는다. 우리 다 죽기 전에 해결돼야 한다”고 강조했다.

집회 참가자들은 성명을 내어 “900번의 시위에도 꿈쩍 않는 철문은 우리에게 포기하라 하지만, 일본 정부가 책임을 인정하고 해결하는 그날까지 멈추지 않을 것”이라며, 일본 정부의 공식 사죄와 배상을 요구했다. 올해로 결성 20돌을 맞는 정대협은 위안부 문제 해결 촉구를 위해 한·일 양국에서 시민들의 서명을 받고 있다. 이날 수요집회는 일본·독일에서 함께 열렸고, 일본 민주당 중의원 1명과 참의원 2명, 일본의 시민단체 ‘위안부 문제의 입법해결을 요구하는 모임’, ‘국제앰네스티’ 등은 연대 성명을 보냈다.


위안부 문제는 1965년 한일협정 체결 당시엔 논의조차 되지 않았고, 일본 정부는 계속 “민간에서 한 것”이라며 군 개입을 부정했다. 그러다 1993년 고노 요헤이 관방장관이 일본군이 위안부 연행에 개입을 인정한 ‘고노 담화’를 발표했으나, 여전히 공식 사과 등은 없었다. 올해는 경술국치 100년, 해방된 지 65년이 되는 해다.

김민경 기자 salmat@hani.co.kr

http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/1026810.html


2010年01月29日13:37
韓-日の教師たち, 歴史教科書 副教材 共に作った
カテゴリ社会
1拍手
原文入力:2010-01-28午後09:59:30(1021字)
7人ずつが参加 年内に出版予定
パク・ジュヒ記者
韓国と日本の教師たちが韓国・日本近現代史を扱った歴史教科書副教材を共同で作り、両国で韓国語と日本語で同時に出版する。
全国教職員労働組合大邱支部は28日「日本,広島県教職員組合と一緒に書いた歴史教科書副教材を‘韓-日強制併合100年’になる今年中に出版する予定」と明らかにした。開港から現在までの歴史を扱った今回の教材は、両団体所属教師7人ずつが参加し5年にわたり両国を行き来し一緒に書いた。先立ってこれらは2005年に歴史教科書副教材<朝鮮通信使>を共同出版した経緯がある。
今回出てくる本は250~300ページ分量で5章で構成された。主題別に△開港と近代化△侵略と抵抗の韓-日関係△解放以後の韓国と日本社会の変化△残された課題△友好のための努力に分けて整理した。
全教組大邱支部キム・ビョンハ事務局長は「大部分の日本歴史教科書で言及していない日本軍慰安婦,強制徴用・徴兵,戦後賠償・補償など、日帝強制支配期の敏感な歴史的事実も加減せずに入れた。我が国の生徒たちにはなじみがうすい日本の戦後処理と民主化過程,被爆者問題も含めた」と語った。独島問題は日本側副教材に正面から記述することに困難があり、今回の教材から除かれた。執筆陣は大邱と広島に絡む興味深い交流の歴史を紹介するなど、地域的観点から韓-日の歴史に光を当てようと試みたという点を強調した。<未来を開く歴史><向かい合う韓日史>とともに、すでに出版された韓-日共同歴史教材には見られない内容だ。
教材執筆に参加しているカン・テウォン教師(大邱科学高校)は「近現代史に対する両国間の見解の差を明らかにしたり、その差を克服し統一された視角で書こうとはしない」とし「視角の差異をお互いに認めあう中で、両国の生徒たちに歴史的‘事実’をきちんと教える道案内となる本を作ろうと思う」と話した。
日本,広島教組執筆陣たちが来月24日、大邱を訪問し韓国の教師たちと3泊4日間で副教材内容について討論し詰めの修正作業を行う予定だ。
大邱/パク・ジュヒ記者hope@hani.co.kr
原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/401604.html 訳J.S

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/401604.html

한-일 교사들, 역사교과서 부교재 함께 만든다
등록 : 2010.01.28 19:20수정 : 2010.01.28 21:59
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7명씩 참여 올안 출판 예정
한국과 일본의 교사들이 한·일 근현대사를 다룬 역사교과서 부교재를 함께 만들어 두 나라에서 한국어와 일본어로 동시에 펴낸다.
전국교직원노동조합 대구지부는 28일 “일본 히로시마현 교직원조합과 함께 쓴 역사교과서 부교재를 ‘한-일 강제병합 100년’이 되는 올해 안에 출판할 예정”이라고 밝혔다. 개항 때부터 현재까지 역사를 다룬 이번 교재는 두 단체 소속 교사 7명씩이 참여해 5년에 걸쳐 두 나라를 오가며 함께 썼다. 앞서 이들은 2005년 역사교과서 부교재 <조선통신사>를 함께 펴낸 바 있다.

이번에 나올 책은 250~300쪽 분량에 모두 5장으로 구성됐다. 주제별로 △개항과 근대화 △침략과 저항의 한-일관계 △해방 이후 한국과 일본 사회의 변화 △남겨진 과제 △우호를 위한 노력으로 나눠 정리했다.

전교조 대구지부 김병하 사무처장은 “대부분의 일본 역사교과서에서 언급하지 않은 일본군 위안부, 강제징용·징병, 전후 배상·보상 등 일제 강점기의 민감한 역사적 사실도 가감 없이 담았다. 우리 학생들에게는 생소한 일본의 전후 처리와 민주화 과정, 피폭자 문제도 포함했다”고 말했다. 독도문제는 일본 쪽 부교재에 정면으로 기술하는 데 어려움이 있어 이번 교재에서 빠졌다. 집필진은 대구와 히로시마에 얽힌 흥미로운 교류의 역사를 소개하는 등 지역적 관점에서 한-일 역사를 조명하려고 시도했다는 점을 강조했다. <미래를 여는 역사> <마주 보는 한일사>와 같이 이미 나온 한-일 공동 역사교재에서는 찾아보기 힘든 대목이다.

교재 집필에 참여하고 있는 강태원 교사(대구과학고)는 “근현대사에 대한 두 나라 사이의 시각차를 드러내거나, 그 차이를 극복해서 통일된 시각으로 쓰려고 하지 않는다”며 “관점의 차이를 서로 인정하는 가운데 두 나라 학생들에게 역사적 ‘사실’을 제대로 가르치는 데 길잡이가 되는 책을 만들려고 한다”고 말했다.

일본 히로시마 교조 집필진들이 다음달 24일 대구를 찾아와 한국 교사들과 3박4일 동안 부교재 내용에 대해 토론하며 막바지 수정작업을 할 예정이다.

대구/박주희 기자 hope@hani.co.kr

http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/1070721.html


2010年03月01日09:06
[3・1記念日特集]韓-中-日歴史教科書分析 | 韓国・日本教師 共同副教材討論
カテゴリ社会
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原文入力:2010-02-28午後07:22:57(4087字)
争点ごとに数時間…日帝‘供出’は‘収奪’と書くことに
パク・ジュヒ記者,キム・ミョンジン記者
←全教組大邱支部所属教師たち(左側)と日本,広島県教職員組合所属教師たち(右側)が去る25日、大邱,壽城洞の全教組大邱支部事務室で開かれた韓国・日本共同歴史教科書執筆のため近・現代史の部分討論会で教材草案を巡り討論を行っている。 大邱/キム・ミョンジン記者 littleprince@hani.co.kr
小早川健‘広島県教職員組合’執行委員長が 「‘供出’を全て‘収奪’に変えて書こう。日本国内で批判があろうと覚悟する」という話で2時間近く引っ張った‘供出 対 収奪’論争を整理した。
韓国・日本共同歴史副教材を執筆する際、日帝強制占領期間に日本が朝鮮で軍需物資を調達していく過程を叙述する部分から‘供出’と書いたものを全て‘収奪’に変えて書くことにした。‘供出’という表現が当時、朝鮮民衆らが自発的に軍需物資を賄ったとわい曲しかねないという指摘を日本の教師たちが受け入れたのだ。
日帝強制占領・戦後処理 歴史 4泊5日 12時間ずつ論争
2月26日大邱,寿城区の全教組大邱支部事務室。韓国・日本共同歴史教科書副教材出版を控え全教組大邱地部と日本,広島県教職員組合所属教師たちが教材草案を巡りきっ抗した討論を行った。
2005年に出した共同副教材<朝鮮通信使>と比べ、日帝強制占領期間と戦後処理が含まれた近現代史を扱った今回の本は執筆過程がはるかに難しかった。本を書くに先立ち両国の教師たちは‘国家的観点を離れ歴史的事実を生徒たちにありのまま伝達する’という原則を立てた。これを忠実に守ったおかげで大きな枠組みでは歴史的事実に対する認識の差は大きくなかった。
だが、その事実を教材でどんな用語で規定し叙述すべきかという具体的な表現方法を定める作業は容易ではなかった。毎日12時間を越えるマラソン討論を4泊5日間継続した。韓国・日本共同副教材が更に客観的な言語に整えられる過程だった。
日本, 王 戦争責任叙述に難色
■天皇の戦争責任
"弾丸をすでに2発受けたので3度目は大丈夫です。" 小早川執行委員長の話できっ抗した緊張を破り一度に笑いが起きた。太平洋戦争の責任を扱う部分で、韓国教師たちが "天皇の責任をより明確にする必要がある" と提案したことに対する返答だ。2003年、広島県教職員組合事務室に実弾2発が発射された事件があった。当時、教職員組合は日本右翼の歴史認識を批判し平和教育の先頭に立つ活動に不満を抱いた勢力らの威嚇を受けた。小早川執行委員長はこの事件を想起させ、日本で非常に敏感な問題である天皇の戦争責任を教材に直接叙述することは容易ではないという返事の代わりにしたのだ。韓国教師たちも日本の状況を十分に理解した。直接的な表現は避けながらも天皇と財閥,軍部に代表される戦争責任の主体を明確にしようということで両国教師たちの意見がまとまった。
‘従軍慰安婦’→‘日本軍慰安婦’に
■日本軍慰安婦
日本軍慰安婦について確認された歴史的事実に対しては論争する必要がなかった。ただし慰安婦を‘性奴隷’と表現するには国籍を離れて教師たちごとに意見が分かれた。ピン・スミン(32・大邱高)教師は "性奴隷と明確に書く必要がある" と主張した。パク・ジェホン(聖光高)教師は "学生たちに伝達するのに適切な表現かも考えてみなければならない" とした。日本教師たちは "日本では性奴隷という表現は書かず、教科書には‘従軍慰安婦’と書く" と説明した。激論の末に個人の意志で軍隊に付いて行ったという意味が含まれる‘従軍’という言葉を除き‘日本軍慰安婦’と書くことにした。この問題を叙述する時は "国家責任を追及するところから抜け出し、徹底して女性の観点で説明しよう" というチャン・デス(51・時至高)教師の意見に皆が同意した。一部の日本教師たちは草稿で慰安所を利用する軍人に対し‘いつ死ぬとも知れない戦場で荒廃して行った兵士たち’と書いた部分をそのままにしようと主張した。当時、戦争の惨状の中で疲弊されていく人間をよく表わす表現が生徒たちの理解を助けると見たのだ。韓国教師たちは驚いて飛び上がった。"女性を性的奴隷とした野蛮性を希薄にする恐れがある"という理由からだ。結局、この表現は日本側で再び検討することにした。
‘賠償’という表記、さらに議論することに
■国家賠償問題
日帝強制占領期間の強制徴用,徴兵,慰安婦などの被害に対する回復問題に移り、これを‘賠償’と書くか‘補償’と書くかについて、両国教師たちの間で意見が対抗した。韓国教師たちは戦争の責任が日本政府にあるという点を明確にしようとすれば‘賠償’と書かなければなければならないと主張した。これに対しキクヤマ マサミチ(57・宮島工業高校)教師は“(戦争責任を回避しようとする)日本政府に対し批判的”としながらも、教材に‘賠償’という用語を使うことには速やかに同意しなかった。日本教師たちは‘日本社会で賠償と区分せずに幅広く補償という表現が使われているので、あえて賠償と直して使う必要はない’という意見を明らかにした。これに反し、カン・テウォン(49・大邱科学高校)教師は“一般人が具体的に問い詰めずに補償と書くが、それがまさに政府の責任を隠そうとする意図であり‘補償’という用語に固執する日本政府や一部右翼言論が狙うこと”と指摘した。長い討論を経て両国教師たちは皆‘賠償’という言葉を使う趣旨には共感した。だが日本側は自国の情緒を無視し賠償という用語を使うことは難しいという意見を曲げなかった。こういう意見の差が狭まらなかったためなのか、一部韓国・日本共同歴史教材には日本本には‘補償’、韓国本には‘賠償’と表記している。両国教師たちは共同教材の正しい意味を生かすには便宜上両国教材に各々別の表現を使ってはならないという原則を守りたがった。今後、時間を置いて再び議論しなければならない課題として残した。
韓国人被爆者に対する賠償問題では日本教師たちが“南韓だけでなく北韓にいる被爆者らに対する賠償問題まで生徒たちに教える必要がある”と提案した。これに韓国教師たちが“私たちもそこまで考えなかったので、日本教師たちが先に言及してくれてありがとう”と答え、今回の教材で北韓被爆者賠償問題も扱うことにした。
大邱/パク・ジュヒ記者 hope@hani.co.kr
“支配者でなく民衆の観点で見た”
韓国側 チャン・テス教師
←韓国側チャン・テス教師
-今回の教材は歴史教科書とどのように変わっているか?
“概して教科書では国家主義的,民族主義的観点で歴史を扱っている。この副教材では支配論理ではなく民衆の観点で歴史的事実を叙述しようとし、教科書では外された地域史を補充した。”
-韓国・日本共同作業を通じて得た最も大きな成果は何か?
“日本について知らなかった多くの事実を知ることになり、深く理解することになった。依然として残っている植民史観の影響を克服できる機会にもなった。戦争の歴史を集中的に探ってみて、ぞっとする歴史の中の加害者や被害者とならないよう生徒たちを教育することが重要だという点を改めて悟った。”
-10年間 韓-日共同副教材作業をしてきて、どんな困難があったか?
“すべての討論と執筆過程が韓国語と日本語で同時になされた結果、通訳と翻訳を経て作業が予想よりはるかにゆっくりと進行された。時間的,経済的制約から執筆陣が会って議論する時間が常に不足していた。”
-新副教材は学校現場でどのように活用されるのか?
“事実だけを伝える授業ではなく、歴史認識と思考力を高める授業で資料として使えるだろう。生徒たちが入試にばかりしがみついていて授業時間に歴史副教材を活用する機会が不足した点が残念だ。”
大邱/パク・ジュヒ記者
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“政府次元での共同研究 はやくできることを”
日本側 小早川教組委員長
←日本側 小早川教組委員長
-‘歴史的事実とその意味については共感しながらも、教材にそのまま表現するには勇気が足りない’という韓国教師の指摘があったが?
“この本が日本社会で幅広く読まれるようにしたい。それでどちら側にも偏らずに歴史的事実をありのまま正確に書こうとした。韓国教師たちが主張する意味はよく分かりながらも、日本で広く使われている用語を使おうという理由でもある。だが右翼が意図的に使う言葉に対しては批判的な対応を続けるだろう。”
-現在の日本歴史教科書にはどんな問題点があるか?
“扶桑社や自由社教科書などは侵略戦争を美化し植民支配を正当化している。生徒たちに戦争加害の歴史について正確な事実を知らせていない。”
-今回の副教材が完成されれば学校現場でどのように活用されるか?
“管理・統制教育が強化されており、校長の許諾なしに教師が願ったからと授業時間に全面的に教材として使うことは難しい。補充教材として活用することはできる。”
-歴史教育と関連して日本教育当局に望む点は何か?
“民主党政権になり、自律教育が保障される側に政策が変わっていることに期待をかけている。鳩山総理が韓・中・日共同歴史研究に言及した経緯があるので一日も早く行動に移したら良い。この時に現場教師たちの役割を十分に生かすことができることを願う。”
大邱/パク・ジュヒ記者
原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/407304.html 訳J.S

http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/407304.html

쟁점마다 수시간…일제 ‘공출’은 ‘수탈’로 쓰기로
등록 : 2010.02.28 19:22


전교조 대구지부 소속 교사들(왼쪽)과 일본 히로시마현 교직원조합 소속 교사들(오른쪽)이 지난 25일 대구 수성동 전교조 대구지부 사무실에서 열린 한·일 공동 역사교과서 집필을 위한 근·현대사 부분 토론회에서 교재 초안을 놓고 토론을 벌이고 있다. 대구/김명진 기자 littleprince@hani.co.kr
[3·1절 특집] 한-중-일 역사교과서 분석|한·일 교사 공동부교재 토론






고바야카와 겐 ‘히로시마현 교직원조합’ 집행위원장이 “‘공출’을 전부 ‘수탈’로 바꿔 쓰자. 일본 내에서 비판이 있더라도 각오하겠다”는 말로 2시간 가까이 끌던 ‘공출 대 수탈’ 논쟁을 정리했다.

한·일 공동 역사부교재를 집필할 때 일제강점기 일본이 조선에서 군수물자를 조달해가는 과정을 서술하는 부분에서 ‘공출’로 쓴 것을 전부 ‘수탈’로 바꿔쓰기로 했다. ‘공출’이라는 표현이 당시 조선 민중들이 자발적으로 군수물자를 댄 것으로 왜곡할 수 있다는 지적을 일본 교사들이 받아들인 것이다.

일제강점·전후처리 역사
4박5일 12시간씩 논쟁

2월26일 대구 수성구 전교조 대구지부 사무실. 한·일 공동 역사교과서 부교재 출판을 앞두고 전교조 대구지부와 일본 히로시마현 교직원조합 소속 교사들이 교재 초안을 놓고 팽팽한 토론을 벌였다.

2005년 펴낸 공동부교재 <조선통신사>와 견줘, 일제강점기와 전후 처리가 포함된 근현대사를 다룬 이번 책은 집필과정이 훨씬 까다로웠다. 책을 쓰기 앞서 두 나라 교사들은 ‘국가적 관점을 떠나 역사적 사실을 학생들에게 있는 그대로 전달하겠다’는 원칙을 세웠다. 이를 충실히 지킨 덕분에 큰 틀에서는 역사적 사실에 대한 인식 차가 크지 않았다.

하지만 그 사실들을 교재에서 어떤 용어로 규정하고 서술할 것이냐 하는 구체적인 표현방법을 정하는 작업은 녹록지 않았다. 매일 12시간 넘는 마라톤 토론을 4박5일 동안 이어갔다. 한·일 공동부교재가 좀더 객관적인 언어로 다듬어지는 과정이었다.


일, 왕 전쟁책임 서술 난색

■ 일왕의 전쟁 책임 “총알을 이미 두 발 받았기 때문에 세번째는 괜찮습니다.” 고바야카와 집행위원장의 말에 팽팽한 긴장을 깨고 한바탕 웃음이 터졌다. 태평양 전쟁의 책임을 다루는 부분에서 한국 교사들이 “일왕의 책임을 보다 분명히 할 필요가 있다”고 제안한 데 대한 답변이다. 2003년 히로시마현 교직원조합 사무실로 실탄 두 발이 발사된 사건이 있었다. 당시 교직원조합은 일본 우익의 역사인식을 비판하고 평화교육에 앞장서는 활동에 불만을 품은 세력들의 위협으로 받아들였다. 고바야카와 집행위원장은 이 사건을 상기시키며 일본에서 매우 민감한 문제인 일왕(천황)의 전쟁 책임을 교재에 직접 서술하기는 쉽지 않다는 대답을 대신한 것이다. 한국 교사들도 일본의 상황을 충분히 이해했다. 직접적인 표현은 피하면서도 일왕과 재벌, 군부로 대표되는 전쟁 책임의 주체를 명확하게 짚어주자는 데 두 나라 교사들의 의견이 모였다.

‘종군위안부’→‘일본군위안부’로

■ 일본군위안부 일본군위안부에 대해 확인된 역사적 사실에 대해서는 논쟁할 필요가 없었다. 다만 위안부를 ‘성노예’로 표현하는 데는 국적을 떠나 교사들마다 의견이 갈렸다. 빈수민(32·대구고) 교사는 “성노예라고 분명히 쓸 필요가 있다”고 주장했다. 박재홍(성광고) 교사는 “학생들에게 전달하기에 적절한 표현인지도 생각해봐야 한다”고 했다. 일본 교사들은 “일본에서는 성노예라는 표현은 쓰지 않고, 교과서에는 ‘종군위안부’로 쓴다”고 설명했다. 격론을 벌인 끝에 개인의 의지로 군대를 따라나섰다는 의미가 담긴 ‘종군’이라는 말을 빼고, ‘일본군위안부’로 쓰기로 했다. 이 문제를 서술할 때는 “국가 책임을 추궁하는 데서 벗어나서 철저하게 여성의 관점에서 설명하자”는 장대수(51·시지고) 교사의 의견에 모두 동의했다. 일부 일본 교사들은 초고에서 위안소를 이용하는 군인에 대해 ‘언제 죽을지 모르는 전장에서 황폐해져 간 군사들’이라고 쓴 부분을 그대로 두자고 주장했다. 당시 전쟁의 참상 속에 피폐해져 가는 인간을 잘 드러내주는 표현이 학생들의 이해를 돕는다고 본 것이다. 한국 교사들은 펄쩍 뛰었다. “여성을 성노예로 삼은 야만성을 희석시킬 수 있다”는 이유에서다. 결국 이 표현은 일본 쪽에서 다시 검토하기로 했다.

‘배상’이란 표기 더 논의키로

■ 국가배상 문제 일제강점기의 강제 징용, 징병, 위안부 등 피해에 대한 회복 문제로 넘어가자, 이를 ‘배상’으로 쓸 것인지 ‘보상’으로 쓸 것인지를 놓고 두 나라 교사들 간 의견이 맞섰다. 한국 교사들은 전쟁의 책임이 일본 정부에 있다는 점을 명확히 하려면 ‘배상’이라고 써야 한다고 주장했다. 이에 대해 기쿠야마 마사미치(57·미야지마공고) 교사는 “(전쟁 책임을 회피하려는) 일본 정부에 대해 비판적”이라면서도 교재에 ‘배상’이라는 용어를 쓰는 데는 선뜻 동의하지 않았다. 일본 교사들은 ‘일본 사회에서 배상과 구분짓지 않고 폭넓게 보상이라는 표현이 쓰이고 있기 때문에 굳이 배상이라고 고쳐 쓸 필요가 없다’는 의견을 밝혔다. 이에 반해 강태원(49·대구과학고) 교사는 “일반인들이 구체적으로 따지지 않고 보상이라고 쓰는데, 그게 바로 정부의 책임을 가리려는 의도로 ‘보상’이라는 용어를 고집하는 일본 정부나 일부 우익언론이 노리는 것”이라고 지적했다. 긴 토론을 거쳐 두 나라 교사들 모두 ‘배상’이라는 말을 쓰려는 취지에는 공감했다. 하지만 일본 쪽은 자국의 정서를 무시하고 배상이라는 용어를 쓰기가 어렵다는 의견을 굽히지 않았다. 이런 의견 차가 좁혀지지 않은 탓인지 일부 한·일 공동 역사교재에는 일본 책에는 ‘보상’으로, 한국 책에는 ‘배상’으로 표기하고 있다. 두 나라 교사들은 공동 교재의 참뜻을 살리려면 편의상 두 나라 교재에 각각 다른 표현을 써서는 안 된다는 원칙을 지키고 싶어 했다. 향후 시간을 두고 다시 논의해야 하는 과제로 남겼다.

한국인 피폭자에 대한 배상 문제에서는 일본 교사들이 “남한 뿐만 아니라 북한에 있는 피폭자들에 대한 배상문제까지 학생들에게 가르칠 필요가 있다”고 제안했다. 이에 한국 교사들이 “우리도 미처 생각지 못했는데 일본 교사들이 먼저 언급해줘서 고맙다”고 답해 이번 교재에 북한 피폭자 배상문제도 다루기로 했다.

대구/박주희 기자 hope@hani.co.kr

“지배자 아닌 민중관점서 봤다”

한국쪽 장대수 교사



한국쪽 장대수 교사
-이번 교재는 역사교과서와 어떻게 다른가?
“대체로 교과서에서는 국가주의적, 민족주의적 관점에서 역사를 다루고 있다. 이 부교재에서는 지배논리가 아닌 민중의 관점에서 역사적 사실을 서술하려고 했고, 교과서에는 빠진 지역사를 보충했다.”

-한·일 공동작업을 통해 얻은 가장 큰 성과는 뭔가?

“일본에 대해 몰랐던 많은 사실을 알게 됐고, 깊이 있게 이해하게 됐다. 여전히 남아 있는 식민사관의 영향을 극복할 수 있는 기회도 됐다. 전쟁의 역사를 집중적으로 짚어보면서, 끔찍한 역사 속의 가해자나 피해자가 되지 않도록 학생들을 교육하는 일이 중요하다는 점을 새삼 깨달았다.”

-10년째 한-일 공동 부교재 작업을 해오면서 어떤 어려움이 있었나?

“모든 토론과 집필과정이 한국어와 일본어로 동시에 이뤄지다 보니, 통역과 번역을 거치면서 작업이 예상보다 훨씬 더디게 진행됐다. 시간적, 경제적 제약으로 집필진이 만나서 논의할 시간이 항상 부족했다.”

-새 부교재는 학교 현장에서 어떻게 활용되나?

“사실만 전달하는 수업이 아니라 역사인식과 사고력을 높이는 수업에서 자료로 쓸 수 있을 것이다. 학생들이 입시에만 매달려 있어 수업시간에 역사 부교재를 활용할 기회가 부족한 점이 아쉽다.”

대구/박주희 기자

“정부차원 공동연구 빨리 되길”

일본쪽 고바야카와 교조위원장



일본쪽 고바야카와 교조위원장
-‘역사적 사실과 그 의미에 대해서는 공감하면서도 교재에 그대로 표현하는 데는 용기가 부족하다’는 한국 교사의 지적이 있었는데?
“이 책이 일본 사회에서 폭넓게 읽힐 수 있도록 하고 싶다. 그래서 어느 쪽으로도 치우치지 않고 역사적 사실을 있는 그대로 정확하게 쓰려고 했다. 한국 교사들이 주장하는 의미를 잘 알면서도 일본에서 널리 쓰이는 용어를 쓰려고 하는 이유이기도 하다. 하지만 우익이 의도적으로 쓰는 말에 대해서는 비판적인 대응을 계속할 것이다.”

-현재 일본 역사 교과서는 어떤 문제점이 있나?

“후소사나 자유사교과서 등은 침략전쟁을 미화하고 식민지배를 정당화하고 있다. 학생들에게 전쟁 가해 역사에 대해 정확한 사실을 알리지 않고 있다.”

-이번 부교재가 완성되면 학교 현장에서 어떻게 활용되나?

“관리·통제 교육이 강화돼 있어 교장 허락 없이 교사가 원한다고 수업시간에 전면적으로 교재로 쓰기는 어렵다. 보충 교재로 활용할 수 있다.”

-역사교육과 관련해 일본 교육당국에 바라는 점은 뭔가?

“민주당 정권이 들어서면서 자율교육이 보장되는 쪽으로 정책이 바뀌고 있는 데 기대를 걸고 있다. 하토야마 총리가 한·중·일 공동역사 연구를 언급한 적이 있는데, 하루빨리 행동으로 옮겼으면 좋겠다. 이때 현장 교사들의 역할을 충분히 살릴 수 있기를 바란다.”

대구/박주희 기자

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