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Monday, January 30, 2012

leaving prince and queen from court in Joseon

http://hungmei.exblog.jp/11159731/
李氏朝鮮・清朝ドラマ比較その4

①后妃出宮
李氏朝鮮では、死んだ王の后妃は正室以外、実家に戻るようです。世子(王位後継者)の生母だったりすれば話は違うかもしれませんが、ドラマでは「王の女」で14代宣祖の寵愛を集めやりたい放題だった仁嬪キム氏がキム尚宮との争いに半ば破れ実家に帰っていたのが印象的です。また、その際、世子以外の王子も母に付き従うかのような演出でした。いつごろからのルールかわかりませんが、9代成宗側室のチョン・オム両貴人はなぜか10代燕山君時代に宮中にいますし(そして燕山君によって惨殺されるのはいろいろなドラマでおなじみ)、パワーバランスもあるのか11代中宗の妃・昌嬪安氏(※)は文定王后に気に入られ中宗死後もしばらく宮中に残ったようです。

②王子出宮
しかし、王子のほうでは世子以外は結婚すれば宮中を出て、屋敷を構えるのが普通のようです。そうすると生母が出宮したタイミングで王子の屋敷に引き取ったりするのでしょうか?清朝でも王子は有る程度の年齢で宮中から出て屋敷を構えるような印象がありますが、4代雍正帝の「太子密建」で王位後継者は今上帝が死ぬまで不明なので、李氏朝鮮のようにはいかないのでは・・?どうなるのか興味有りです。公主も、結婚すると公主府に移り住みますよね(王府が皇子、皇族の屋敷)。

※生前の地位は格下の昭容ですが、孫が14代宣祖になったため死後、追号。ここで疑問ですが、19代粛宗の側室で非常に低い身分だった淑嬪チェ氏。彼女は21代王の生母ながら、王后とは追号されず、嬪のままですね。清朝だととりあえず息子が皇帝になれば生母は生前の地位を問わず皇太后になれる印象があるのですが(西太后夫と恭親王の間で少しもめたけど)、李氏朝鮮では王の生母でも王后とは追号されないのですか?チャンヒビンの場合は、嬪待遇で埋葬されるのが温情なくらいやらかしちゃったかわかるけど・・・。雅号(?)の違いはあれど、皇帝の子供が公主(格格)/皇子(阿ge)で統一されている清朝に比べて、李氏朝鮮だと母の身分で公主(嫡出)/翁主(庶出)、大君/君でわけてあるのが、厳格なイメージです。

Commented by リイサ at 2010-05-23 00:56 x
大体の場合は実家があれば実家に帰るか、自身の兄や弟やその息子が引き継いだ本家に戻る事が多いです。
その時の王に寄って違いますが、治世が安定してたり、中殿→王妃が後宮に対して寛大な場合は
王宮に残るケースが多いです、成宗(貞顕王后の人徳)中宗(文定王后は自身の気に入りの後宮のみ)
仁宗(仁聖王后の人徳)、正祖の場合は孝懿王后の徳がとても高く、和嬪伊氏は宮中で没してます。
大体の後宮は尼寺である正業院で晩年を過ごし没する事が多いです。
たまに正業院で没する歴代の王后もいますよ。比丘尼になった王后や後室もいます。
Commented by リイサ at 2010-05-23 00:56 x
その時代、その治世に寄りますが、10人に1人の割合で大君も公主が夭折する時代でした。
大君と君では扱いがかなり別格ですね、公主と翁主でも。
君だと出宮が多い上に必ず王室の監視が付きます→謀反を起こさないように!
大君は王が王室の財源から生活費を全て出して貰えます。
君になるとその生活費の支出が大君よりもかなり少ないです。
公主は名門の両班の息子に嫁ぐ事が多いですが、早世が物凄く多いですよ。
翁主は公主よりも落ちますが両班の息子に嫁ぐ事が多い、出産時の産褥死が多いです。
両班の娘も王室の公主や翁主も温室育ちで大事に育てられてるので長寿は非常にマレですね。
一番の長寿は宣祖の娘である貞明公主(永昌大君の姉)
Commented by リイサ at 2010-05-23 00:56 x
1499年に生まれた’昌嬪安氏’は京畿道の家の娘に生まれた。 美貌というよりは品行がきちっとして落ち着いていた
彼女は九才の時の1507年に女官に選ばれて、宮廷生活を始めた。 中宗の母ジョンヒョン大妃の目に入り、二十才の時中宗の寵愛を受ける。
それで二十二才の時にやっと正5品尚宮になった。三十一才の時に従4品淑媛、そして従3品淑容に上がった。
この過程でアン氏は中宗との間に2男1女をもうけた。優れた人格と品位を持っていたので文定王后も彼女を格別に思っていた。
1545年中宗が亡くなるや慣例により安氏も喪に伏しインス宮に退こうとした。しかし文定王后の強力な引き止めがあった。
すでに世の中は文定王后の世であった。4年後実家を訪れた安氏は特別な病気もなく50才で生涯を閉じた。
ちなみに彼女は靖国功臣の娘ではなく、両班の出身です。
Commented by hungmei at 2010-05-23 09:42
淑嬪崔氏が賎民出身だったのがネックだったみたいですね!
ちなみに淑嬪崔氏は3人の王子を産んでいます。
ちなみに張禧嬪は1男1女で、1女は産後直ぐに夭折。
高宗がある尚宮に話した逸話があります。
淑嬪崔氏ムスリこと水汲みではなく針女だったんです!
大抵の女官は中人出身の人が多いです。
王后として英祖が実母を追贈しようとしますが臣下が「賎民の分際で!」
と言って全ての臣下が反対したそうです・・・やっと臣下が納得して
毓祥宮和敬徽徳安純綏福淑嬪(海州崔氏) として追贈したぐらいなんです。
肅宗は精神状態が安定しない症状があり、景宗も精神を患います(これは母の死も原因ですが!)
英祖が荘献世子を米びつの中に閉じ込めた餓死事件の反面、和平翁主、和緩翁主 への偏愛
Commented by hungmei at 2010-05-23 09:44
リイサさま

稚拙なブログにご丁寧にコメントをありがとうございました!キムヘス版チャンヒビンでチェ氏がチバンにつとめていたのは本当なのですね。卑賎といいますが一般庶民くらいなんですか?賎民階級などではないですよね。女官に中人が多いのと、ムスリが水汲みとは知りませんでした。ありがとうございました。
Commented by リイサ at 2010-05-23 12:57 x
賤民は良民に戻る事が可能な奴婢、不可能な白丁で構成され、
婚などに様々な制約が加えられていた。奴婢は国が所有する
公奴婢と個人が所有する私奴婢にわかれ、市場で売買などが行われた。
白丁は、稀に賤民から良人になったケースもあるが、希有な例ですね。
ただ賤民から妓生になった後に商人になったケースもあります!
巨商・金万徳と言うドラマが韓国で放映されてますが。
近くNHKBSに上陸予定です。
済州島の飢餓を救い、済州島では「万徳ばあさん」と言われ物凄く慕われてます。
ちなみに彼女は実在の人物で正祖に謁見してるんですよ。
賤民でも奴婢であればお金さえあれば両班の身分を買う事もあったようです。
没落や貧しい両班が自分の身分を売るケースもありました(黙認されてた!)
同じく中人や常人が貧しさから自身の身分を売るケースもありました。
卑賎は滅多に使われない言葉です、賤民よりも低い立場で
この言葉はとても卑しい言葉になるんですよ・・・
Commented by リイサ at 2010-05-23 12:57 x

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